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本と本屋と

第23回  本屋は忘れる

 土曜日の夕方、棚入れをしていたら、
 「どうも、久しぶり!」
 と、ポロシャツの男性が親しげに声をかけてきた。
 「あ、こんにちは、お世話になります」
 見覚えはある。東京の版元さんだよね? と、大慌てで記憶をたどりつつ、挨拶する。
 「いや、実はプライベートで来たんだけどね、せっかくだから寄ってみた。沖縄は昔からよく来てるんだ」
 「へえ、お好きなんですか」
 「ダイビングするの、こう見えても」
 当たり障りのない会話をしながら、鞄から注文書の入った封筒が取り出される。
 「ついこういうの持ってきちゃうんだよね」
 と、苦笑いとともに渡された封筒の社名を見てようやく、ああ○○社さんか、と納得する。ひとしきり話をして、  「よい旅を」
 と送り出す。お名前は思い出せなかった。

 訪ねてくる側は、最初から「○○書店に行こう」という心構えができている。店員は名札をつけているから、間違うこともない。でも、こちら側はお客さまなのか出版社の営業の方なのかを判別するところから始まるのだ。顔を合わせるなり、
 「うちの本、どう?」
 と聞かれて、とっさには答えられなかったこともある。
 問い合わせをされたお客さまがどの方だったかわからなくなるのもしょっちゅうだし、有名人を接客することがあっても気づかない。日々たくさんの人を相手にしていながら、人の顔を覚えるのは全然うまくならない。

 本屋の仕事では、机に向かって暗記するようなことは何もない。本の並べ方や著者の名前は棚を触ったり本を読んだりして覚えるもので、字面だけ追っても意味がない。本の注文条件といった業界の約束も、実際には建前が多く、経験を積まないことには理解できない。日々の業務のなかで、少しずつ体に染みこんでいくのが本屋の知識である。  本屋に入って誰もが体験するのは、お客さまに聞かれた本を自力で見つけられたという喜びだ。検索することもなく記憶だけで、たくさんの棚の中からたった1冊を取りだしてみせる。
 「わ、すごい、ありがとうございます」
 というお客さまのひとことで、毎日毎日おなじところばかり歩きまわっている苦労も報われる。

 「あたしってハムスターみたい」
 と、昔の同僚がいつもいっていた。やろうとしたことをすぐ忘れてしまうと。そのたとえは可愛すぎるのではないかとひそかに思っていたが、いいたいことはよくわかる。事務所にやって来たものの、さて、何をしに来たのだっけ? と動きが止まったことが、何度あるか。
 「まず実存主義の棚に『超訳ニーチェの言葉』を補充して、向かいのヒーリングの棚のオラクルカードの空き具合を見て、沖縄書の棚にこのポスターを貼って、書評コーナーに『松山御殿の日々』を3冊持っていこう」 と、動線を完璧に組み立てて歩きだしても、ポスターを貼るあたりで気持ちは別の方に向き、『松山御殿の日々』のことは忘れてしまう。あとであわてて取りに戻ったりして、効率が悪い。
 自分がこんなに忘れっぽい人間だとは知らなかった。しかし、事務所の電話の周りにいつも注文書や本が置きっぱなしになっているのを見ると、他の人も似たりよったりのようだ。何かしようとしていても、電話をとって問い合わせなど受けているうちに、忘れてしまう。

 お客さまに本をきかれて、「知っている本だ」と棚に直行しても見つからなくて、「絶対ここにあるはずなのに」と不審に思いつつ検索機で調べると、出版社品切れの表示になっている。「この本が!?」と驚きつつ、お客さまにお詫びする。
 こういう本は、忘れられない。いつか機会があれば、その出版社の人に
 「お問い合わせがあったんですよ、重版してください」
 といってみようと思う。忘れたら、その本はそのまま消えてしまう。

 消えてしまった人も、忘れられない。結婚退職した同期の子、仕事の合間に勉強を続けて司法試験に受かって辞めていったアルバイト、「実は今日は後任の引き継ぎに来ました」といきなり切り出す営業の方。働き始めてから、いったい何人の人と別れてきたのだろう。
 ここ2,3年は、お世話になった方々が次々に定年を迎えている。嘱託として仕事を続けられる方も、完全に身を引いてしまう方もいらっしゃる。
 この「本と本屋と」の連載を勧めてくださり、原稿を読めば必ず「とてもいいです」と励ましてくれ、1年も原稿が滞っても優しく待っていてくださった方も、この3月で退職される。棚と本と人のあいだに埋もれている時間を、外から見るきっかけをくださった恩人である。連載を始めて、他の媒体からもときどき依頼をいただくようになった。そのときも、必ずこの恩人の顔を思い浮かべながら書いた。
 私が本屋で働き、文章を書くかぎり、恩人のことを忘れることは決してない。こちらからも無理にでも原稿を送りつけ、私のことを忘れられないようにしたい。
 ありがとうございました。


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