本と本屋と
第1回 桃色の本
新潟に新しい店ができるので、二月は手伝いに行っていた。朝から夜まで、一日に何千冊の本を抱えただろうか。
ふだん店にいると接客などに追われてなかなか棚に集中できない。本だけに向きあえるのは幸せな時間でもあるけれど、なにせ消耗する。
「やっぱりこの並びは一番上に持ってきたい……そうすると一段ずつずらさなければ……棚の高さも変えて……」
構想はあっても、手が動きださない。力が抜けてくると、あちこちからバサバサと本を落とす音が聞こえてきたりする。(おわびします)
お客さまがおらず何の反応も返ってこない棚では、ともすれば本の内容より外見に気をとられる。きつい棚では厚い本を返したくなり、思いとどまって隣の棚にはみ出させたり、並べ順がわからなくなるととりあえず背の順にしてみたり。本は見た目じゃない、と自分に言いきかせつつ、ついついきっちり本のつまった棚をつくろうとしてしまう。
開店前でも新刊は毎日入ってくる。なかなか箱を開ける余裕がない。それでも初めての本を見るのは楽しいから(がっくりすることもあるけれど)、気晴らしに開けてみる。
ある日、ある本がぱっと目に飛びこんできた。
『イタリア・ルネサンスの文化』ヤーコブ・ブルクハルト著、筑摩書房。
ブルクハルトは何冊か著書を挙げられるくらいで、読んだことはない。なのに「これは!」と思ったのは、カバーの色だった。鮮やかな桃色。函入りの茶色い本ばかりさわっていたから、それはそれは華やいで見え、気分が晴れた。春がきたように。
ページ数は700ページ、A5判で、どっしりとしている。こんなに立派なのに桃色、とまた浮きたつ。
この本を、あの殺風景なホテルの部屋に飾りたい。ときどき持ちあげて手ごたえを確かめたりしたい。
もしレジがあったら買っていたかもしれない。7350円というのは安くないけれども。ともあれ開店前は本を持ち帰るすべがないので、西洋史の棚にしっかり面陳した。棚に少し空きがあったのもちょうどよくて、この本が入ってきたうれしさを増した。
帰ってくれば、池袋店にもこの本は並んでいる。レジはもちろんある。今のところ、買っていない。
ふだん店にいると接客などに追われてなかなか棚に集中できない。本だけに向きあえるのは幸せな時間でもあるけれど、なにせ消耗する。
「やっぱりこの並びは一番上に持ってきたい……そうすると一段ずつずらさなければ……棚の高さも変えて……」
構想はあっても、手が動きださない。力が抜けてくると、あちこちからバサバサと本を落とす音が聞こえてきたりする。(おわびします)
お客さまがおらず何の反応も返ってこない棚では、ともすれば本の内容より外見に気をとられる。きつい棚では厚い本を返したくなり、思いとどまって隣の棚にはみ出させたり、並べ順がわからなくなるととりあえず背の順にしてみたり。本は見た目じゃない、と自分に言いきかせつつ、ついついきっちり本のつまった棚をつくろうとしてしまう。
開店前でも新刊は毎日入ってくる。なかなか箱を開ける余裕がない。それでも初めての本を見るのは楽しいから(がっくりすることもあるけれど)、気晴らしに開けてみる。
ある日、ある本がぱっと目に飛びこんできた。
『イタリア・ルネサンスの文化』ヤーコブ・ブルクハルト著、筑摩書房。
ブルクハルトは何冊か著書を挙げられるくらいで、読んだことはない。なのに「これは!」と思ったのは、カバーの色だった。鮮やかな桃色。函入りの茶色い本ばかりさわっていたから、それはそれは華やいで見え、気分が晴れた。春がきたように。
ページ数は700ページ、A5判で、どっしりとしている。こんなに立派なのに桃色、とまた浮きたつ。
この本を、あの殺風景なホテルの部屋に飾りたい。ときどき持ちあげて手ごたえを確かめたりしたい。
もしレジがあったら買っていたかもしれない。7350円というのは安くないけれども。ともあれ開店前は本を持ち帰るすべがないので、西洋史の棚にしっかり面陳した。棚に少し空きがあったのもちょうどよくて、この本が入ってきたうれしさを増した。
帰ってくれば、池袋店にもこの本は並んでいる。レジはもちろんある。今のところ、買っていない。