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本屋になる

第10回 本を編む

 五月のある日。店を閉めたあと、車で映画を観にいった。「舟を編む」。国語辞典『大渡海』をつくる、出版社の辞書編集部の話である。
 生活のなかで用例をひろい、他の辞書と比べながら見出し語を選んで、専門家たちに執筆を依頼し、何度も校正を重ねる。紙を特注し、書店にキャンペーンを仕掛ける。
 一冊の本に十年以上かけて、何百人もの人が動く。一点の妥協も一字の誤りも許されない。あんな緊張感をもって本とかかわったことがあるだろうかと考えるとうつむいてしまう。かばんの中のノートが恥ずかしくなる。
 私の隣に座っている人はほんものの編集者である。きっと私とは全然違った感慨をもって観ているのだろう。まだまだこんなもんじゃない、とか思っているかもな。

 本にかかわる会社のなかでは、出版社が一番えらいということになっている、と思う。たぶん。本の売上の配分も社員の待遇も、そうなっている。出版社のつくった本がなければ、取次も書店も仕事がない。
「どうして書店に就職したの? 出版社は受けなかったの?」
と、これまで何十回もきかれてきたのも、「出版社に落ちたから書店に入ったのか」と思われていたのだろう。出版社の人に「書店は受けなかったんですか?」なんて一度もきいたことはない。
 私は、出版社は受けなかった。就職活動の初めに大手出版社の説明会に行き、配られたエントリーシートを見たら、
「あなたはどんな本をつくりたいですか」
という項目があった。つくりたい本なんてない、とすぐに思った。
 本はもう充分すぎるほどあるように見えた。この出版社だって在庫はおそらく何万点と持っている。さらに新しくつくるより、今すでにある本を人に売っていくほうがてっとり早いのではないか。
 それに出版社に入ったら自社の本しか扱えないけれど、書店ならあらゆる本を見ることができる。取次よりもお客さまに近くて、最後まで見届けられる。書店がいいな。
 土日も祝日も休めず、立ちっぱなしでお客さまのクレームも目の前で受けて、出版社の人をうらやむことは多々ありつつ、「私にはつくりたい本はないから」と思っては、書店しかないのだと覚悟を決めなおした。

 自分でつくろうとは思わなくても、人がつくった本を見たり、つくろうとしている話を聞いたりするのは楽しい。新刊案内に注文数を入れ、営業の人の説明を聞きながら、どんな本ができてくるのか想像した。
 本は充分すぎるほどにあると思ったのに、足りない本もまだたくさんあるのだと店頭で知った。こんな本はない? とお客さまから問合せを受けては、
「よくきかれるんですけど、出ていないんです」
「出ていたんですが、絶版になりました」
と答え続けて、機会があれば出版社の人にいちおう伝えてみる。つくって欲しい本は、ある。でも自分ではつくらない。無精者だから。

 書店を辞めて古本屋を始めてから、店を取材されたり自分で書いた原稿を載せてもらったりする機会があった。私は素材を提供するだけで、本のかたちにするのは編集者の人である。話したことや写真が枠内に整えられ、他の記事のなかに位置づけられる。原稿はレイアウトされ、イラストまで添えてくれることもある。
 自分が素材になったせいか、今までは本の内容ばかりに目が向いていたのに、その内容がどんなふうに編集されているかが気になってきた。原稿もなく著者もいない状態でなにかに目をつけ、人に連絡をとり中身を用意しながら外側も固めていき、本のかたちに落としこむ。最初に型があってそこに内容を入れるのではなく、内容にあわせて型をつくるのだと、ようやくわかってきた気がした。

 映画のあと、居酒屋で向かいあって座り、ノートを取りだす。100円で買ったリングノートに、私のつくりたい本の切れはしが貼りつけてある。
 つくりたい本なんてなかったはずなのに、ある場所でのちょっとした会話から新しい本の姿がぼんやりとうかんできた。知り合いの編集者に軽い気持ちで話したら、次にやることを教えてくれた。
「中身を選んで、ノートに貼ってごらんなさい」
 言われたとおりにテキストをカッターで切り刻んで、ノートに並べてみた。今日はそれを見てもらう約束だった。
 右のページは空けて左に貼ってみようか。どこで改行するか。ここの順番は逆のほうがいいだろうか。ノートには何度もつけ替えたクリップの跡が残り、細い行はうまく切れなくてギザギザで、ものとしてまったく美しくない。こんな稚拙な切貼を、よりによって辞書編纂の映画のあとに見せるなんて。
 またうつむいていたら、言われた。
「いいですね」
「本当に、きたなくて」
「みんなここから始まるんですよ」
 顔をあげる。そうか。本のかたちになる日が本当に来るかは全然わからないけれど、とにかく、始められたんだ。本と私のあいだに、いつか新しい動詞が生まれるかもしれない。





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