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ビートン夫人の教え

3 <後編>

 この次には、彼ら中産階級の人々の一日の日課のモデルが示されているのも興味深い。すなわち、

1,まず早起きして、自ら入浴や身支度を済ませ、
2,子供たちの沐浴や身支度を督励し、
3,それから時間を定め家族全員揃っての朝食
4,使用人たちの質問に答えて適切に指示を出し、
5,午前中は子供の箪笥整理をしたり、子供に本を読んでやったりして相手をし、
6,余裕ある暮らしの人はこの時間に文学や趣味、庭いじりなどをするのもよろしく、
7,午後一時ころに昼食、
8,その後夕食までの間の数時間に「Morning Call」ということをする。
 (これは表敬や儀礼、慶弔などのために人を訪問したりされたりする習慣のことで、慣習的に夕方まではモーニングと呼ぶことになっていた、と原書の註にある。こういう表敬訪問のような場合は、ごく短時間15〜20分で済ませるのが礼に適ったやり方で、いずれにしてもエチケットやマナーを心得るべきことを説いている。そうして、かかる場合には、あまり装飾的な服装は不可で、いささかおしゃれが足りないというくらいが好ましい、とイザベラは言う。このあと、お悔やみの仕方とか、見送りの作法とか、事細かに書かれているのであるが、ここでは割愛する)。

9,そしてディナー。
 ここではディナーといっても、まずは、いわゆる「晩餐会」ならびにそれに付随する「舞踏会」などのもてあつかいが述べられている。その具体的ないちいちの事実については省略することにするけれど、なぜそのことを縷々述べてきたかということについて、イザベラは、「これらはみな女主人の任務である」からだと言う。
 すなわち、礼にかなった招待状を用意して発送し、じっさいに使用人たちを使役して立派にしつらいを施し、料理を用意し、接客にぬかりなきを期し、パーティの潤滑に進行すべきを図り、と一家の女主人の果たす役割は限りなく大きかったのである。
 そしてもし女主人が無能であったりすると、料理が滞って客たちを無用に待たせたりする結果となり、非常にフラストレーションを引き起こすもととなる、と戒める。ここに、ちょっと典拠を明らかにしない面白い詩句が引用されている。

 座して待つことの悲しさよ
 腹を減らして三十分の長きこと
 時計睨んで、また睨み
 時計とコックは動いとるかと首捻る

 空腹抱えて笑ってみても
 無理な笑いは空しく消えて
 あたりにどんより暗さが戻る

 おっとご覧な、飯が来た
 皆が望んで恐れてたものが
  やれ嬉しやな、苦痛の終り!

 思わず頤を解くべきユーモアが、こんな形で鏤められているのも、イザベラの機知に富んだ人柄を偲ばせるというものではあるまいか。気の短い私などは、この詩句を読んで腹を抱えて笑ってしまった。そしてイギリス人も我らも、空腹で食事を待つことの悲しさは変らないんだなあと妙なことに感心したりもするのである。


10,晩餐の後の時間。
 「晩餐会の後の時間の招待をすることもある。この場合、客人たちの到着時刻は各自のスケジュール次第でいかようにも変ってくる。とくに上流社会のひとたちは気まぐれのように所定の時刻にはやってこないことがある。ただし、イブニング・パーティに招待された客は自分の都合のよい時間に到着してもよいというのが慣習となっている。特別に早い時間が指定されない限り、通常それは午後九時から十二時というところである。なにぶん上流の人々は約束があれこれあって、一晩に二つ三つのパーティを掛け持ちするなんてことがよくあるからだ」
 こういう夜のパーティの集合時間については、現在でもイギリス人たちは、いっこうにルーズであって、七時から開宴という招待であっても、その七時にやって来る人など皆無で、八時、九時ころになってぼつぼつ姿を現すなんてことが珍しくない。私どもは、なんてまたイギリス人は時間にだらしないんだろうと呆れることになるのだけれど、なるほどこういうことであったかと、ビートン夫人の教えによって納得することができる。
 そしてこれら正餐や舞踏会のことを散々に述べたあとで、ほんの付けたしのように「家族との夕食」にも触れるのだが、イザベラの心のなかでは、外向きの晩餐会と内向きの家族の夕食とは、ほとんど等価のものとして考慮されているらしい。
 ただ、晩餐会となるといろいろ留意しておかなくてはならないしきたりがあるので、ついつい懇ろに筆を揮ったということなのであろう。
 それに対して、家族の夕食は頻度も多く大事なものであって、なおかつ経済性も充分考慮しなくてはいけないということを言っている。ただし、そこで大切なこととして彼女が強調していることは次の通りである。
 「テーブルクロスを敷き、サイドボードも使って、パーティと同じ心構えで、清潔・整頓をむねとしてこれを営むのがよい。そういったルールがいつも守られることによって、皆管理の方法にも通暁し、日々の仕事にも慣れて、なにか問題に直面したときもこれを楽々とこなせるようになり、様々な障害も克服することができるようになる」

 さらに、そのあと。
11,夜の過ごし方
 ヴィクトリア時代は、一面において家庭主義の時代でもあった。家庭というものを大事にして、そこにこそヒューマニティの源泉があるということを強調したのである。それはおそらくその前時代の産業革命期における人間疎外的な荒涼とした生活の実相に対する反動として、温かい家庭を希求するという意識が培われたものかと思われる。ディケンズの『クリスマス・キャロル』などはその好個の一例である。
 そこでビートン夫人は、家庭の重要な営みとしての料理の本を著すに当って、次のようなことを書き添えずにはいられなかった。
 「夜を家庭で過ごすそのひとときは、厳しい仕事から心を解放して、優しい楽しみのうちに活気づける、まさにこれほどに喜ばしいことは他には求め得ぬわけである。夜の集いに若い人達が交じっているときは、とくに面白く愉快な遊びをするといい。若い人達が、とりわけて家庭のなかに健全な娯楽や安らぎ、あるいは幸福感を見いだすことはなかんずく大切なことで、そうしないと彼らは得てして家の外に良からぬ娯楽を求めかねないからである。どの家庭にあっても、子どもたちに、世界で一番楽しいところは家庭だということを感得させなくてはななぬ。そしてこの子供たちに楽しい家庭の味を知らしめることは親から子に与えられる最良の贈り物の一つである」
 じっさい、こういう家庭観は今もイギリス社会の基底を成すものとして生きているように思われる。お父さんやお母さんが、執務時間を終えたら、さっさと帰宅して、それから家族で過ごしたり、あるいは酒を飲むにしても一度家庭に帰ってから地元のパブに出かけたりするというのも、いわばこういうヴィクトリア時代的家庭倫理の残滓というふうに見做すこともできる。
 そうして、女性たちにとって、手芸のような手技が夜のリクシエィションになるということ、あるいはチェスやバックギャモンなどのゲームに興ずるのもよいこと、さらに、文学作品を朗読したりすることも大変に楽しいことだとイザベラは付言しているのである。
 たしかに、今でもイギリスでは、親が子供の枕元で児童文学を朗読して聞かせるというようなことが、まったく普通に行われている。そういうことがまた、児童文学、ファンタジー文学などの源泉ともなって、イギリスを世界最高の児童文学王国たらしめているのだということは、かかる記述を読むにつけても、なるほどなと思うところである。

12,就寝。
 そして家庭のなかの悪い習慣として、彼女は「夜更かし」を挙げている。それが早起きを不可能にするからである。とりわけ、子供らは夜の早い時間に定時的にベッドに就かせるようにすべきで、使用人たちも同断であると言っている。
 一家の主人、女主人たるものは、家族をそれぞれ床に就かせ、使用人たちの就寝を見届け、その後消灯や暖炉の消火を確認してから寝るべきものだというのである。
 こういう記述を読んで行くと、ヴィクトリア時代の家庭生活というものが、実際にどのように営まれていたか、ありありと目の当たりに見えてくるような気がする。

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