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ビートン夫人の教え

2 家庭の原理原則 <後編>

 さてまた、その次に、イザベラが強調しているのは、「倹約」である。勤勉であれ、清潔であれ、そして倹約であれ、と彼女のいうことはまるで二宮金次郎のようでもあるが、そこでもまた、彼女は歴史的大物の言葉を引用して、おさおさ怠りなく自説の補強に勉めているのである。
 ここに引かれているのは、かのサミュエル・ジョンソン博士(1740-95)の言葉である。
 「倹約は分別の娘、節制の妹にして、自由の親なり。奢侈に走るものはたちまちに貧し、貧しきものは立たず、以て腐敗を招来するものなり」
 しかしながら、同時に彼女はここに、ビショップ・ホール司教(1574-1656)の、「狭き道にて馬車を転回せしめ得るものは巧みなる馭者というべし。・・・私ならば自ら持てる僅かの財物を増やさんとするよりは、むしろその使い方の質を考える」という言説を引用しつつ、この倹約が行き過ぎて単なる吝嗇沙汰になることを戒めてもいるのである。
 ヴィクトリア時代は、植民地から流入する膨大な富を背景とした一種のバブル時代であった。そうして、クリスタルパレスのような世界の最先端の前衛的建築物を造ったり、いっぽうで下水道や公衆浴場や洗濯場や病院や公衆便所や鉄道やと、さまざまなインフラを整備して市民の幸福に寄与しようとした時代でもある。
 そこで、市民たちの嗜好もやや華美に流れることがあり、一面爛熟した悪趣味の時代でもあったし、また私財をなげうって自然保護や歴史的事物の保存などに乗り出そうというようなチャリティの思想が盛んに鼓吹された時代でもあった。かのナショナルトラストのような活動もまたこの十九世紀末にその濫觴を求めることができるのである。
 だから、お金を稼いで裕福になったものが、その富をまったく私して汚く蔵匿するがごときは、時代の風として忌避されるところがあったので、夫人はそういうことがないように、品格あるお金の使い方をもさりげなく教諭したものと思われる。
 そこからまた、展開して、イザベラは人付き合いの要諦にまで筆を及ぼすのである。
 彼女の考える良い人付き合いというものは、あくまでも個々人が独立していて、必要以上に狎れあわない、適切な距離を置いて、しかも互いに高め合うような、そういうインテリジェントな関係であったように思われる。
 それは単に一個人の問題ではなくて、家族として隣人とのつきあいかたを間違えると幸福を阻害されるおそれがあるから、例えば、隣人たちを嘲笑したり、あるいは放送局のようにゴシップを流して愉快がるような人は着き合わぬようにしなくてはいけないと教える。まことに実践的な教えである。ここで彼女はスコットランドの自然詩人、ジェイムズ・トムソンの詩句を引く。

 「囁かれたる話は
 あたかも伝説のナイルのごとく、その源を知らず
 麗しき顔をして欺き、その狡猾でわざとらしき目は
 決して真すぐに人を見ず。その砂をなぶる舌は
 ひとたび易しとみるや、ただちに刺さんとす」

 と、こんな文学的な詩句が、ここで引き合いに出されているのだから、こういう本を読んだ人は、たしかにちょっと偉くなったような、ぐっと昂揚する気分を味わったかもしれない。
 では、孤立していていいのか、というと、そうではなく、彼女は家事の余暇には、一般的な、或いは特定の関心に結ばれた情報交換をするためのソサエティを作って活動すべきことを勧めている。
 こういう意識は、じつは現代まで確乎として受け継がれていて、イギリスも特に田園のほうへ行くと、町や村のコミュニティセンターのようなところを拠点として運営されているWomen's Institute という組織がたくさん存在している。これらは、日本でもこのごろ盛んになってきた雑学大学的な市民のボランティア活動なのだが、さまざまな技術や芸術を持ちよって、とくに家庭婦人たちがその教養や技術を高め合おうという運動である。日本の農村の婦人会というのも、これに似た組織であるが、ビートン夫人のいうソサエティというものは、おそらくこのWomen's Institute のような活動を意図したものであろうと思われる。そういう先進的思潮が、こうして彼女の家政の本のなかに息づいているのである。
 さてまた、「友情は慌てて築こうとしてはいけない」とイザベラは教えている。
 人はうわべでは判断できない。一見親切そうで温和に見えても、実は心の中が冷淡で温かみのない人格の人もいる。だから、性急拙速に人付き合いを始めると、あとになってシマッタということになるから、よく相手の人柄を見ることが必要で、それには時間がかかるというのである。イザベラは書いている。
 「これは必ずしも不人情で相手を区別するのではないのです。酸いも甘いもかみ分けた人というものは、初対面の人と出会ったときには、その行動や性向をよくよく吟味した上で、その人物を信ずべきか否かを判断するものなのだ、とこのことを言っておかなくてはなりません」
 ここで引き合いに出されるのは、ジョゼフ・アディソン(1672-1719)の言葉である。曰く、
 「もっとも煩わしくないつきあいがもっとも役に立つ。だから私は、あまり馴れ馴れしい仲の友人よりも、分別あるつきあいの友人を好む」
 と。さらに、イザベラは、スコットランドの劇作家であり詩人でもあるジョアンナ・バリー(1762-1851)の詩句を引いて駄目押しをする。

 「友情は促成栽培すべきものでない
 尊敬という土壌に根深く植え付け
 懇篤なる交わりを以て次第に耕し
 かくてそのまったき形にいたる」

 言い得て妙とはこのことである。じっさい、イザベラ・ビートンが、どうやってこれらの夥しい箴言名言を嚢中に出来たのか、私にはよくわからないのだが、いかにも洒落た、そして適切な言葉が周到に引用されていて、この人の教養が並々ならぬものであったことを窺わせる。
 つぎに、いわゆる「もてなし」というものが、いかがあるべきか、そのことにも夫人はぬかりなく筆を及ぼしている。
 もてなしは人として素晴らしい徳ではあるけれど、それを単に「周りに人が居ることが嬉しいから」などという浅薄な理由でしてはいけないというのである。
 やはり啓蒙時代の著者らしく、ここでもまた、彼女は現実性と誠実さが必要だと説く。そうしてアメリカの作家ワシントン・アーヴィング(1783-1859)の言葉を引いて諭すのである。
 「真実のもてなしには、心から発せられる何かがある。それが何であるか説明することは難しいけれど、だれにもすぐ感じられる何かで、しかもそのことが人をほっとした気持ちにさせるのである」
 ふむふむ、なるほどなあ。
 そこからさらに、彼女は、日常における会話の大切さに言及し、またどういうことに留意して会話すべきかということにもなかなか含蓄あることを述べる。
 すなわち、ちょっとがっかりしたこと、気に障ること、つまりそういう面白からぬ出来事をば友人に話すべきではないというのである。
 ふつう友達同士では、そういう下らないことを喋々喃々しがちなもので、私たちは、百年の昔からビートン夫人に叱られてしまいそうである。しかし、彼女の求めるところは、要するに会話というものは、人と人の関係を温め円滑ならしむるためにあるので、ネガティブな雑談は却ってそういうコミュニケーションを阻害しかねないというのであろう。まことに聞くべき意見である。
 反対に、なにか慶弔いずれにあっても、重要な出来事、つまり話す価値ある事柄については、友に知らせて語らうべきだとも主張する。そういうときに心を一つにして喜びあるいは悲しんでくれる友が存在することが、その相手の心を安らかにするというのである。
 そうして、たとえば妻の立場であったら、他人に対して夫の悪口や弱点などを話すべきでないと戒める。

 かくして、会話というものは、語るに値する事柄について、しかも前向きな態度で話すべきだということになろうか。会話のありようは、詩人のウイリアム・カウパー(1731-1800)の、次の詩句のごとくでなくてはいけないと言うのである。

 「夏の驟雨の後によどみなく流れる水の如く
 機械仕掛けもて汲み上ぐる如くにあらず」

 こういう会話の妙というものは、案ずるにその話者の人格に依拠するところが大きいと思うのだが、それについて、ビートン夫人は、女主人たる者、つねに朗らかで温厚親切でなくてはならないと言う。それが子供たちを良い性格に育て、また使用人たちを懐かせる所以でもあるというわけだからである。いわゆる威を以て従属させるのでなく、徳をもって懐けるという行き方である。
 なるほど、どれもこれももっともなる意見で、こういうことは、洋の東西、時代の今昔を問わぬことなのだなあと今更ながらに思惟される。


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