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ビートン夫人の教え

1 ビートン夫人とは誰か。<後編>

 ともあれ、イギリスとドイツで見識を磨いたやり手少女イザベラ・ドーリングは、帰国後まもなく、ロンドンでサミュエル・ビートンという青年と婚約する。
 サミュエル青年は、もともとイザベラの母親の友人の息子であったと伝えるが、この男は非常に目端の利く、しかも進歩的な考え方を身に付けた、これも新時代の申し子のような人物であった。
 そうして、サミュエルは21歳の時からクラーク・ビートン&カンパニーという印刷出版会社の共同経営者として立ち、その頃ハリエット・ビーチャム・ストウの『アンクル・トムの小屋』で大当たりを取って一財産を手にしていた。
 ついで1852年には「Englishwomen's Domestic Magazine」、さらに1855年には「Boy's Own Journal」を発刊して、いずれも大人気を博していた。この「英国婦人家庭雑誌」とでも訳すべき家庭婦人向けの雑誌は、一ヶ月に2ペンスという穏当な値段で、料理裁縫などの実用記事から、詩・小説などの文学分野、そして歴史記事や一般教養に属するようなあれこれのこと、医学記事もあれば、作文コンテストも掲載する、果ては「キューピッドのお便り袋」と題した人生相談に至るまで、あたかも痒いところに手が届くような盛りだくさんの女性雑誌であったから、ヴィクトリア時代後期の独立意識高まる女性たちの大いに喜び迎えるところとなったのである。
 こういう雑誌のなかに、イザベラは、得意の外国語を活かして、フランス語の小説の翻訳を載せたりして夫を助けるようになった。かくて雑誌は順調に部数を伸ばして1860年までには五万部の発行を誇るメジャーな存在となっていった。
 イザベラとサミュエルが結婚したのは、1856年の7月10日、イザベラ20歳、サミュエル25歳の夏であった。
 結婚後すぐに、夫妻はロンドン都心から三十キロばかり西北のピンナーという郊外の新興住宅地のセミ・デタッチト・ハウス(二軒棟割り住宅、ヴィクトリア時代以来もっとも多く作られた標準的住宅建築様式)に引っ越した。この家は、サミュエルが結婚にそなえて着々と用意していた新居であったらしく、その造作のことを書き送ったサミュエルからイザベラへの熱いラブレターが残っている。
 夫妻は、新婚早々から新しい家に住み始めて、料理人、キッチンメイド、ハウスメイド、庭師、を一人ずつ雇ったが(この程度の員数を雇うことは、当時の新興中産階級の家庭の標準的経営であったと、フリーマン女史は書いている)、ここにおいて、若いイザベラはそれまで雇い人を管理する仕事などしたことがなかったので、じっさいにはかなり困惑することが多かったらしい。
 かくして、イザベラ・メアリー・ビートン夫人は、新婚早々にして、「いかにして家を切り回すか」ということを教える百科全書的な本があれば、家庭婦人たちにとっては非常に大きな助けになるに違いない、と思いついたものと考えられている。
 それから、彼らは「Englishwomen's Domestic Magazine」誌上に、その家庭百科全書のもとになる記事をすこしずつ発表しながら、三年の後、1859年11月1日に、ついに逐次刊行式『ミセス・ビートンの家政書』発刊にこぎ着けたというわけである。

 実際、今日まで「イギリス料理の権輿」として金色燦然たる名声を保っているビートン夫人のお料理の実体というものは、このビートン夫妻が経営していた「Englishwomen's Domestic Magazine」誌に、全国の読者から寄せられた夥しいレセピが中核になっているのであった。
 イザベラは、すぐれてジャーナリスティックな手腕を持った新時代の女性で、筆もたてば、外国語にも堪能だし、芸術や文学に広い教養を持っていて、サミュエルにとってはまたとない「山内一豊の妻」であったのだ。
 そうして彼女は、それらの夥しい投稿レセピをば、ピンナーの家のキッチンで、料理人やキッチンメイドたちといっしょに、片端から作っては試食して、その結果を取り集めて、この家政書に掲載したのであった。実際、オックスフォード版の解題によれば、2000近いレセピのうち、ビートン夫人自身の発明によるものはたったの10にも満たないものだという。
 つまり、実体から言えば、イザベラ・ビートン夫人という人は「料理家」であったというよりは、むしろ「料理編集者」という存在に近かったのである。
 初版ともいうべき逐次刊行式小冊子を合綴した本のなかで、発行人のサミュエル自身の差配で布装一冊に装訂され、功労者の妻イザベラに献呈された一本が、ヴェルカー女史の論文に図版として掲げられている。

 この膨大な料理の森と、すべてお見通しのように読める家政の手引きなどを読んでいると、あたかもビートン夫人という人は、劫を積んだ老獪なるベテラン主婦であったかのような印象があるけれど、それは実のところ全然当たっていない。
 彼女は、当時まだ20歳からいくらも経っていない「駆け出し」の主婦で、しかも1865年、28歳のときに4人目の息子を出産するとまもなく産褥の為に落命してしまったのである。
 『ミセス・ビートンの家政書』自体は、初版以降、逐次増訂を繰り返しながら、常に発行され続け、初版刊行年に六万部、その後1868年(明治元年に当たる)までに、無慮二百万部を売り上げて、当時並ぶもののない大ベストセラーとなった。しかも今日までなお新刊が行われていて一定の読者があることを思うと、史上最高のロングセラーであると言ってもよいかもしれない。
 彼女の死後、サミュエルは、不運にも銀行の倒産事件に巻き込まれて投資していた資金一切を失い、ついに破産のやむなきに至る。それは最愛のパートナー、イザベラの死から僅かに一年後、1866年のことであった。
 この破産に際して、彼は、当時ライバル出版社として売り上げを伸ばしつつあった、Ward Lock & Tyler社に雑誌と書籍の版権を譲渡するのと引き換えに債務一切の肩代わりを依頼し、同時に同社の社員として雇われの身となった。その俸給は僅かに年俸400ポンドと利潤の六分の一という契約であった。
 もちろん一人の人間が過不足なく暮していくには少なくない金額であったに違いないのだが、それにしても、その後、二百万部を売り上げて膨大な利益をもたらした書物と引き換えにしては、いかにも淋しい金額であったかもしれない。

 ちなみに、私の書室に所蔵する二本には、いずれも同じ出版広告が見返しに掲載されていて、そこには、麗々しくも「Entirely New and Thoroughly Rivised Editions」と銘打って、次のようなラインナップがずらりと並んでいるのを見る。
  • Mrs Beeton's Household Management
  • Cookery in All Its Branches
  • Mrs Beeton's Family Cookery
  • Mrs Beeton's Everyday Cookery
  • Mrs Beeton's All About Cookery
  • Mrs Beeton's Cookery Book
  • Mrs Beeton's Cookery (650 recipes, 256 pages)
  • Mrs Beeton's Cookery (350 recipes, 128 pages)
 そうしてこれらのうち、一番下の一点だけは、色刷りの袋入りとなっていて、値段が6ペンスと飛び抜けて安い。つまりは、かくのごとく、ビートン夫人が死去してから半世紀以上経った時代になっても、なお依然として彼女が作り出した袋入り小冊子のオリジナルなスタイルを僅かながら残していたらしいことが窺われるのである。


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