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憲法で読むアメリカ史

第30回 ロバーツ・コートと最高裁の変化

 

ロバーツ・コート始まる

 2005年9月29日、ジョン・ロバーツはホワイトハウスのイーストルームで、就任式を行った。スティーブンス判事の司式のもと、夫人が支える聖書の上に手をおき、1789年裁判所法が定めた文言のとおりに宣誓を行って、第17代の合衆国最高裁判所首席判事となる。かたわらには任命者であるブッシュ大統領が立った。10月3日に2005年の開廷期が始まると、早速仕事を開始する。前年9月3日にレンクイスト判事が死去してから空いていた首席判事の席がこうして埋まり、ロバーツ・コートが発足した。
 50歳での首席判事就任は最高裁史上3番目に若いが、50歳前後での最高裁判事就任は珍しくない。19世紀前半に数々の重要な判決を下したストーリー判事は32歳、現職のトマス判事も43歳で就任した。この歳で就任すれば、健康に注意して30年間は活躍できる。伝説的なホームズ判事は1932年に引退したとき、90歳であった。
 ちなみに日本の最高裁判事は、憲法と法律が定年として定める70歳になると引退せねばならない。しかも1964年以降、すべての判事が就任時すでに60歳以上であり、憲法79条が定める就任10年目後の2度目の国民審査まで留まった人は、1人もいない(それ以前も6人しかいない)。アメリカの最高歳判事と対照的である。皮肉なことに任期のない最高裁判事が過度の影響力を行使しないよう定年制を設けたのは、GHQ民政局の憲法起草者たちだった。
 ロバーツ首席判事の就任から4ヵ月後、2006年1月31日、今度はサミュエル・アリト判事がホワイトハウスのイーストルームで就任宣誓を行い、史上110人目の最高裁判事として就任する。司式を行ったロバーツ首席判事より年上であるが、55歳の就任は比較的若い。判事のかたわらには夫人と、成年の息子、娘が立ち、反対側に大統領が立った。
 こうして前年7月1日引退を表明したオコナー判事の後任がようやく仕事をはじめた。引退表明から約7ヵ月待たされて、オコナー判事はようやく退く。ただし引退後も終生判事の待遇を受ける。最高裁の内部に執務室を有し、移動にはシークレット・サービスの護衛がつく。すこぶる元気な人なので、その後夫の健康がさらに悪化し、施設に入らざるを得なくなってからは、かえって活発な活動を続けている。連邦控訴裁の判事代理を時々つとめ、イラク戦争の調査委員会委員、ウィリアム・アンド・メリー大学総長など公的な要職を歴任する。頼まれると世界中へでかける。2008年には慶應義塾がお願いして来日してもらった。大学のゲストハウスに宿泊し、学生と時間を共にし、名誉博士号を受けた。少し歳を取られたけれど、今もお元気である。
 アリト判事の就任により、ブッシュ大統領が指名した2人の判事がそろった。19年続いたレンクイスト・コートと交代したロバーツ・コートが、どのような判決を下すのか。人々は大きな関心を抱いた。
 最高裁の運営に関しては、ロバーツ首席判事は前任者のスタイルを殆ど変えていない。だれからも好かれるロバーツ判事はレンクイスト判事と同様、司法観の相違にかかわらず全ての判事にていねいに接し、会議では等しく発言の機会を与えた。ロバーツ判事自身、首席判事に就任するにあたって、憲法の文言と前例にしたがって必要最小限の範囲でなるべく全員一致の判決を下し、政治的な判断は避けると述べていた。今日に至るまで、首席判事としての評判はすこぶるよい。
 けれども同時にロバーツ判事が保守的な司法観の持ち主であることは、予想されていたとはいえ就任から日が経つにつれ明らかになる。まず2006年1月に下された、医師による安楽死幇助に関するゴンザレス対オレゴン事件の判決では、スカリア判事の反対意見に、トマス判事と共に加わる。
 1994年、オレゴン州の州民投票で、不治の病にかかり余命いくばくもない患者が医者の処方した薬で命を絶つことが合法化された。同州の住民は全米でおそらくもっとも進歩的な人たちである。これに対し2001年、ブッシュ政権のアッシュフォード司法長官は、オレゴン州の医師による安楽死幇助を正当な医療行為と認めず、そのための薬の処方は連邦薬物取締法違反として取り締まるとの通達を発する。反発したオレゴン州が同司法長官を相手どり訴えを起こした事件である。
 ケネディー判事の筆になる法廷意見は、連邦法が使用を禁止していない薬物を、オレゴン州法のもとでの使用のみ禁止する権限は司法長官にないという、きわめて技術的な理由でこの通達を違憲とした。まだ最高裁に留まっていたオコナー判事をふくむ、5人の判事が賛成票を投じる。これに対しスカリア判事の反対意見は、そもそも死なせるために医師が薬物を処方することは許されない、それゆえ司法長官の通達は合憲であると判示した。
 不治の病にかかった患者に安楽死を許すかどうか、植物人間になった人の生命維持装置を生前の患者の意思を尊重して取り外すのは許されるかどうか。これらはいわゆる死ぬ権利にかかわる問題である。ロー対ウェード事件以来問題とされてきた妊娠中絶の是非と同様、保守派と進歩派の考え方が激しく対立するプライバシーの権利の一部と考えられている。破れたとは言え、この事件でロバーツ判事は反対意見へ与して明確に保守の立場を取り、プライバシーの権利に否定的であることを示した。
 2ヵ月後の2006年3月、ラムズフェルド対学問・大学の権利に関するフォーラム事件で、ロバーツ判事は初めて法廷意見を著した。キャンパスにおける軍の採用活動を許可しない大学に対し連邦補助金支出を禁止する連邦法を、合憲とする。8対0の全員一致であった。この背景にはクリントン政権が決定した軍における同性愛者の処遇に関する政策がある。
 クリントン大統領は就任直後、同性愛者の採用を軍に認めさせようと試みて大反対に遭う。そして結局、採用の際に同性愛者であるかどうかを軍は訊かないし、採用後もそのことを公表しない限り問題にしないという、いわゆる「Don’t ask, don’t tell(訊くな、言うな)」政策を1994年に採用した。これに対し全米のロースクールは、軍が公然たる同性愛者を任用しないのは性的傾向を理由とする不当な差別にあたるとして、キャンパスでの軍(ならびに同様の方針を有する私企業)の採用活動を禁止する。怒った共和党保守派の議員たちが、1996年にソロモン修正と呼ばれる法律を通して対抗するや、ロースクール側はこれを言論の自由を保障する憲法修正第1条違反だとして2003年に連邦地区裁判所へ訴訟を提起した。
 ロバーツ首席判事は、ソロモン修正は軍の採用活動禁止という行為を禁じたのであって、ロースクールにおける言論を制限あるいは禁止したわけではない。連邦政府から補助金を受け取らなければ、軍の採用活動を許さないのは自由である。したがって連邦政府には合理的な範囲で、補助金の支払いに条件を課すことができる。そう判示した。最高裁判事に就任したばかりのアリト判事は判決に加わらなかったが、全員一致の判決であって憲法解釈上特に保守的な結果というわけではない。ただ大学キャンパスで軍の採用活動を認めるかについては進歩的な大学と軍のあいだで長年の対立があり、保守派はこの判決を大いに歓迎した。
 また2007年4月のゴンザレス対カハート事件で、最高裁は部分出産中絶を禁止する連邦法を合憲とする判決を下す。
 以前記したとおり、2001年のスタンバーグ対カハート事件判決で、最高裁は部分出産中絶を禁止するネブラスカ州法を違憲とした。これに反発する議会共和党の議員が、ネブラスカ州法とほぼ同じ内容の連邦法を制定する。これに対し2001年の事件で原告となったスタンバーグ医師が、この連邦法も違憲だと主張して再び訴訟を提起した。
 法廷意見は、ケネディー判事が著した。同判事は、オコナー判事、スーター判事と共に、ケイシー事件法廷意見の著者である。同判決は、ロー判決が確立した女性が有する憲法上の中絶の権利を守った。しかし部分出産中絶に関しては2人とたもとをわかち、女性の中絶の権利よりも胎児が生きる権利を重んじる。この考え方にもとづきスタンバーグ事件判決では反対意見を著し、州は部分出産中絶を禁止する権限を有するとの立場を取った。そしてゴンザレス事件で連邦政府にも同じ権利があるとした。
 スタンバーグ事件とゴンザレス事件と2つの判決がまるで逆の結果となったのは、部分出産中絶を合憲としたオコナー判事が最高裁を去り、違憲と考えるアリト判事に交代したためである。ケネディー判事の法廷意見には、スカリア、トマス、ロバーツ、アリト判事が加わった。もしオコナー判事がいれば、当該連邦法は違憲とされただろう。同法にはオコナー判事がケイシー判決やスタンバーグ判決で重視した、女性の健康に関する禁止適用除外条項がなかった。ゴンザレス事件判決は、中絶に関する最高裁の立場を大きく変えたと言ってよい。ただし法廷意見は、ロー判決を覆すとは明言しなかった。トマス判事の同意意見は、その点を不服としている。
 この他にも、2007年6月のコミュニティースクール保護者代表対シアトル第1学区事件では、人種を基準とした通学区の設定を違憲とする判決を下し、また同月のモース対フレデリック事件判決では、学校内での麻薬使用を支持するとみなされる言論を生徒に禁じる公立高校のルールは、憲法修正第1条が保障する言論の自由を妨げないとする判決を下した。さらに2008年6月には、コロンビア特別区対ヘラー事件判決で、憲法修正第2条は銃器の保持を憲法上の個人の権利だと定めるものであり、未登録の拳銃保持を禁止するコロンビア特別区の法律は違憲だという憲法解釈を明らかにした。のちにこの権利は、修正第14条を通じて、州へも適用されるという判決が下される。

オバマ大統領の就任

   ロバーツ・コートは、こうして保守的な判決を次々に下した。以前この連載で取り上げた、テロリスト容疑者に憲法上国際法上の権利を大幅に認めるハムダン事件判決のような、進歩的な判決もある。またいたずらに保守的な結果を求めたわけではなく、しばしば狭い範囲での憲法解釈に留めている。それでもなお、重要な判決に保守的な色彩が強いのは事実である。
 第2期のブッシュ政権は、不人気なイラク戦争をはじめ、内外に多くの問題を抱えていた。2006年の中間選挙では、上下両院の議席多数を失う大敗を喫する。2007年にはアメリカ経済が不況に入り、翌年2008年9月にはリーマンショックという未曾有の世界金融危機に襲われた。大量の政府資金を金融機関に投入し、共和党の大統領らしからぬ政策実行を余儀なくされる。大統領の支持率は下がる一方であったが、最高裁の判決だけは保守派がかなり満足する内容であった。新しい最高裁判事2名の任命は、後世に残る第2期ブッシュ政権の大きな成果だったといえよう。
 こうした事態は、進歩派に大きな危機感を抱かせる。当時最高裁の判事は、ロバーツ、スカリア、トマス、アリト判事が保守派、スティーブンス、ギンズバーグ、スーター、ブライヤーが進歩派と、はっきりわかれていて、唯一、ケネディー判事が中道派とみなされていた。したがって多くの重要判決が5対4で決まる傾向があった。晩年には最高裁の調和をより重視し、時に進歩派に与したレンクイスト首席判事と、中絶問題などではっきり保守派と袂をわかったオコナー判事がいなくなり、ロバーツ首席判事とアリト判事に代わったために、全体として最高裁の保守色は強くなった。しかも多くの重要事件で、判決の行方はケネディー判事の投票にかかっていた。ケネディー判事がどちらに票を投じるかは、問題によってなかなか予測がしにくい。
 時の大統領はブッシュである。この状況で進歩派の判事がもう1人欠ければ、さらに保守派の判事が任命される。保守派の優位は決定的になる。ブッシュ第2期が始まった2005年、スティーブンス判事はすでに85歳とかなり高齢であり、ギンズバーグ判事はまだ72歳であったが一度癌で体調を崩していた。スーター判事も、ときどき辞めたいともらしていた。こちらもまたそれぞれ辞任の可能性があった。ただし3人とも、ブッシュ政権中は退けないと思っただろう。
 また憲法の規定上、次の大統領選挙でブッシュ大統領の3選はなかったけれど、共和党の新大統領が選ばれればやはり保守派の判事任命を目指すだろう。2008年の大統領選挙でだれが勝つか。リベラル派に最高裁関係者にとっては、きわめて重要な問題であった。
 言うまでもなく、同選挙の結果大統領に選ばれたのは、バラック・オバマである。ケニア出身の父と白人アメリカ人の母のあいだに生まれたオバマは、アメリカ合衆国史上初めての黒人大統領である。イリノイ州選出、まだ1期目の連邦上院議員であるオバマが2007年に大統領選挙出馬を表明したときには、だれもこの人が大統領になるとは思わなかった。大統領予備選挙にはあらゆる人が立候補して途中で脱落する。オバマもそうなるというのが、大方の見方であった。そもそも黒人大統領誕生は未だ早い。私の友人はみなそう言っていた。
 ところが出馬当時まだ46歳のの若い政治家は、予想に反して民主党の予備選挙を生き残り、2008年の夏にはもっとも有力だと思われたヒラリー・クリントンを破って民主党の指名を受ける。そして同年11月の大統領選挙で共和党候補のジョン・マッケインを破り、翌2009年1月20日第44代合衆国大統領に就任した。
 オバマ大統領の実現に、アメリカ中が熱狂した。一番喜んだのは黒人であるが、進歩派の白人も民主党政権の誕生に、そして初の黒人大統領に興奮していた。共和党の支持者でさえ、比較的暖かい反応を見せる。彼らにしてみれば負けたのは悔しいし、進歩派大統領の出現は心配だ。しかし黒人の大統領を選んで国政を任せる力と寛容が、この国の民主主義にはある。人種差別に苦しんだアメリカも、ここまで来た。そう感じていたようである。たびたびリンカーン大統領の演説を引き、就任演説では奴隷保持者であったジョージ・ワシントンを引用し、人種や思想の相違を乗り越えて一つのアメリカを築こうと訴えた、この若い大統領への期待は高かった。

ソトマヨール判事就任

 オバマ政権がその後どのような軌跡を辿ったかは、この記事のテーマではない。政権の交代が最高裁の行方にどのような影響を与えたか。最後にそれを記したい。
 何度も記したように、政権が変わったからと言って最高裁の人事には影響がない。司法の独立を保障するために、憲法は判事の任期を終身と定めている。判事が引退するか、仕事ができなくならない限り、交代はない。
 けれどもオバマ大統領は、この点運がよかった。就任からわずか3ヵ月後の2009年4月末、スーター判事の引退計画がマスコミに漏れる。スーターはかねてから引退を希望していた。オバマ大統領が就任し、他の判事が引退しないのを見届けてから、その年の開廷期が終わり次第引退する意思を固めた。こうして新大統領に、早くも最高裁判事を指名するチャンスが回ってきた。有力な後任候補として注目を浴びたのは、ソニヤ・ソトマヨール第2巡回区連邦控訴裁判所判事である。
 ソトマヨール女史は1954年、ニューヨーク市のブロンクスでプエルトリコ系移民の家庭に生まれた。9歳のときに父親を亡くし、母親に育てられる。ブロンクスは犯罪の多い、決して安全ではない地区である。そうした環境で育ったものの、成績がよかった彼女は奨学金を得てプリンストン大学に進み、最優等の成績で卒業、イェール大学ロースクールへ進学した。卒業後、ニューヨーク州の検事をつとめ、その後法律事務所で働く。1992年、ニューヨーク州選出のモイニハン上院議員とダマト上院議員の推薦により第41代ブッシュ大統領からニューヨーク南部地区連邦地区裁判所判事に指名され、上院の全員一致で承認され就任した。1997年にはクリントン大統領からニューヨークを管轄する第2巡回区連邦控訴裁判所判事に指名され、このときは上院司法委員会の公聴会と本会議で共和党議員の強い抵抗を受けたが、最終的には大差で承認を受け就任する。
 オバマ政権は最初から、将来の最高裁判事候補としてソトマヨール判事に目をつけていたらしい。対抗候補がいなかったわけではないが、ヒスパニック系の最高裁判事任命は、政治的にきわめて魅力的である。しかも女性であるから、ますます好ましい。民主党も共和党も、人口が増加するヒスパニック系市民からの支持を重要視している。ブッシュ政権が一時ゴンザレス司法長官を最高裁判事に任命しようとしたのも、同じ理由による。
 2009年5月25日、大統領は正式に彼女に指名の意思を伝え、翌日発表した。議会上院司法委員会での公聴会では、野党共和党の委員の執拗な質問を受ける。彼らは特に、彼女が1991年カリフォルニア大学ロースクールでのスピーチで、「苦労を重ねたヒスパニックの女性判事は、そうした苦労を知らない白人の男性判事より、よりよい判決を下すものと期待する」という発言を問題にした。人種差別だというのである。しかし司法委員会は結局16対8で彼女を承認し、8月6日の上院本会議でも68対31で承認された。民主党員は全員賛成し、共和党議員9人も賛成の票を投じる。
 同日、ロバーツ首席判事の司式により宣誓を行ったソトマヨール女史は、史上111人目、女性で3人目、そして何よりヒスパニック系で初めての最高裁判事に就任した。

ケイガン判事就任

 オバマ大統領は、さらに1年後、もう1人最高裁判事を指名する機会を得る。今度は2010年4月9日、最高裁最長老のスティーブンス判事が6月末最高裁閉廷の翌日に引退する旨を表明した。同判事はまもなく90歳になろうとしているにもかかわらず、すこぶる元気であったが、さすがにもう辞めどきだと考えたのであろう。90歳での引退は史上2番目の高齢、34年半最高裁判事をつとめたのは史上3番目の長さであった。
 オバマ政権は再び後任の選定にとりかかる。何人かの候補のなかで、もっとも有力とみなされたのが、オバマ政権でソリシター・ジェネラル(訟訴長官)をつとめるエレナ・ケイガンであった。
 ケイガン女史は1960年ニューヨークのユダヤ人家庭に生まれた。両親ともロシアからアメリカへ移り住んだ移民の子である。プリンストン大学に進学し最優等で卒業。大学から奨学金をもらってオックスフォード大学へ留学し、修士号を獲得した。帰国後ハーバード・ロースクールへ進学し、1986年準最優等賞(マグナ・クム・ラウディ)を獲得して卒業する。コロンビア特別区連邦控訴裁判所ミクバ判事の助手となり、さらにサーグッド・マーシャル最高裁判事の助手をつとめた。ワシントンの著名な法律事務所で働いたあとシカゴ大学ロースクールで教え、1996年にクリントン政権のホワイトハウスにロイヤーとして加わる。1999年、クリントン大統領は彼女をコロンビア特別区連邦控訴裁判所の判事に指名したが、上院の承認を得られなかった。政権を去ったあと、改めてハーバード・ロースクールで教職につき、2003年にはロースクールのディーンに選ばれる。2007年ローレンス・サマーズ学長の後任として最終リストに残ったものの、選ばれなかった。
 2009年オバマ政権の発足にともない、大統領は彼女を女性としては初めての訟訴長官に任命した。訟訴長官は司法省長官と副長官の次に高位の役職で、最高裁で政府を代表して弁論を行う役割を果たす。このポジションにはかつてレンクイスト判事など、後に最高裁判事になった人が数人、任命されている。
 スティーブンス判事の引退表明を受け、複数の有力候補を検討したすえに、オバマ大統領は2009年5月10日、結局同じ政権で働いてよく知っていたケイガン長官を最高裁判事に指名する。上院司法委員会の公聴会は6月28日に始まった。共和党の委員は、彼女がハーバード・ロースクールのディーンとして軍の同性愛者に関する政策(Don’t ask, don’t tell)を強く非難し、軍の採用担当者をキャンパスから締めだした責任者でありながら、訟訴長官としてこの政策を守る立場にあることを問題にした。最高裁判事としてはどのような立場を取るのかと迫ったが、彼女はこの質問に答えるのを巧みに避ける。公聴会は3日間続いたが、承認を左右するような大きな問題はみつからなかった。彼女のロイヤーとしての資質には、非の打ち所がなかった。
 7月20日、上院司法委員会は13対6の投票で本会議に彼女の承認を勧告、連邦上院本会議は8月5日、63対37で承認した。投票はほぼ党派でわかれたが、5人の共和党議員が賛成票を投じた。翌8月6日、ケイガンはロバーツ首席判事の司式のもと、最高裁の会議室で報道陣を入れず、ひっそりと宣誓を行う(それまで判事に任命されたことがなかったので、同じ日に別途報道陣を入れて判事就任の宣誓も行った)。こうしてケイガン判事は史上112人目の最高裁判事、4人目の女性最高裁判事となった。そして同年10月1日、新しい開廷期が始まる日に正式に判事としての仕事を始める。就任時まだ50歳に満たない若い最高裁判事が誕生した。

その後のロバーツ・コート

 ケイガン判事の就任以来、最高裁の顔ぶれは今日まで変わらない。スーター判事とスティーブンソン判事はどちらも個性が強く、彼らの引退は一つの時代の終わりを意味したけれど、2人と交代したのが進歩派の判事であったため、最高裁の勢力バランスはそれほど大きくは変化していない。基本的にはロバーツ、スカリア、トマス、アリトが保守派判事、ギンズバーグ、ブライヤー、ソトマヨール、ケイガンが進歩派判事、ケネディー判事が中道派という構成である。しかし年月が経つにつれ、司法観や判決の方向を変える判事がいる。ロバーツ判事やケイガン判事など、比較的穏健な思想をもつ判事が今後どのような傾向を示すかは、まだわからない。
 ただし引退したのが2人の男性であり、あとを継いだのは2人の女性であったのが、目を引く。最高裁判事9人のうち3人までを女性が占めるのは、もちろん史上初めてである。1981年オコナー判事が女性初の最高裁判事に就任してからほぼ30年。人々はもう当たり前のことと思っているのかもしれない。
 ロバーツ・コートはその後も数々の重要な判決を下している。選挙資金規正法、不法移民、オバマケアと呼ばれる国民皆保険制度、同性愛婚、アファーマティブ・アクションなどの合憲性について、国論を2分し、政府の政策の行方を左右するような判決が、ここ数年続いた。しかしそれはせいぜいここ数年のできごとである。評価を下すのはまだ早い。そろそろこの連載も紙数が尽きる。ここで筆を措くことにしよう。
(完)


(『憲法で読むアメリカ現代史』は、近く単行本化される予定です。長い間のご愛読感謝いたします。 編集部)
 






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