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憲法で読むアメリカ史

第29回 ロバーツ・コートの発足

 

レンクイスト主席判事、患う

 1994年以来メンバーが1人も替わらなかった合衆国最高裁に、2004年の秋、初めて変化の兆しが見られた。10月4日に新しい開廷期が始まってから3週間後、レンクイスト首席判事が甲状腺癌を患っており、11月1日まで休むと最高裁の広報部が発表する。しかし同日になっても判事は法廷に戻らず、放射線と抗癌剤による治療を受けるとの声明を改めて自ら発した。首席判事の不在中、スティーブンス判事が代理をつとめる。癌は悪性であるらしい。人々は病状を心配すると同時に、近く引退を表明するのではないかと考えた。
 翌11月2日に投票が行われた大統領選挙で、ブッシュ大統領は民主党のジョン・ケリー候補を破り、もう1期つとめることが決まった。選挙は接戦であったけれども、2000年の時のように勝敗が最高裁の場にもちこまれるようなことはなかった。選挙人数で286対251、総得票数でも6200万対5900万、約300万票の差をつけての勝利である。前回の選挙で、得票数で負け訴訟で勝ったと悪口をさんざん言われたブッシュ大統領にとって、今回は意地でも勝ちたいと思っただろう。アフガン・イラク戦争の行方は混沌としていたものの、アメリカ国民は戦時にあって現大統領の続投を望んだ。
 翌2005年1月20日、大統領就任式が行われる。ひどく寒い日であった。余談だが、各国大使が就任式へ招かれ、日本の加藤大使も防寒具を身につけ、使い捨てカイロをたくさん持ってでかけた。大使が会場に赴くと、寒さになれないアフリカ諸国の大使たちが南国風民族衣装の正装でガタガタ震えている。外交団の席は日陰でとりわけ寒い。気の毒に思い、使い捨てカイロをわけてあげたら、大変感謝されたという。なかには祖国へ戻って家宝にすると言った某国の大使がいたと、あとで大使から聞いた。
 合衆国憲法第2条1節8項が規定する文言通り、就任式では大統領が、職務を忠実に果たし憲法を守るとの宣誓を行う。最高裁の首席判事が司式するのが、長年のならわしである。しかしレンクイスト判事は癌を患って公衆の面前に顔を見せていない。この寒さでは出てこないのではないか。だれもがそう思った。
 ところが宣誓の時がくるや、顔色の悪い首席判事が杖をつき、おぼつかない足取りで正面に現れる。判事は首をマフラーで厚くまき、その首から気道を空けてつないだ呼吸のための管が出ている。無表情で宣誓の文言を読み上げ、ブッシュ大統領に繰り返させると、おめでとうと一言言い、就任演説を待たずに姿を消した。首席判事は厳寒のなか、病身をおして義務を果たすためにやってきた。本来華やかな就任式に、一瞬粛然とした空気が流れた。

オコナー判事の引退表明

 レンクイスト首席判事の引退時期について、後任について、いろいろな噂が流れる。しかし治療の結果体調をややもちなおして3月から法廷に戻った首席判事は、同年の開廷期の最終日である6月27日、引退を表明しなかった。事態はむしろ意外な方向に展開する。7月1日オコナー判事が、後任判事の決定後すみやかに引退するとの意思を、大統領に手紙で伝えたのである。
 オコナー判事はこのとき75歳。健康にはまったく問題がなかった。ただ夫君のジョン・オコナー氏がアルツハイマー病を患っており、症状が次第に悪化しつつあった。段々周囲の状況がわからなくなる夫を1人で家に残しておけず、毎日最高裁へ連れてきて、執務室のソファーに座らせていた。
 2003年、大使館の晩餐会のおり10数年ぶりで再会したオコナー判事に、最高裁の見学へ招かれた。検察官出身を誘って一緒に指定された日に最高裁を訪れ、2階の奥深くにある判事の自室へ案内される。私たちを招き入れた判事は、自らお茶とクッキーをごちそうしてくれた。そのときも夫君がソファーに座っていたが、まだそれほど症状が進んでいるようには見えなかった。しばらくすると判事は失礼と言って先に法廷へ向かい、我々2人もオコナー氏と一緒に法廷の家族席へ案内されて、口頭弁論を傍聴した。廷吏が伝統にしたがって大声で開廷を宣言し、カーテンの後ろから判事9人が現れて席に着く。そのときオコナー判事は私のほうを向いて、ウィンクした。最高裁の法廷で現職の最高裁判事にウィンクしてもらった日本人は、おそらく私だけだろうと、いまだに誇らしく思っている。
 しかし2005年の半ばまでに、オコナー氏の症状は大分悪化したようだ。一人でふらふらと彷徨するようになった。判事は最高裁の仕事を愛していた。合衆国史上初めての女性最高裁判事として世界中で有名であったし、中道派判事として最高裁の判例の行方に大きな影響を与えてもいた。できればやめたくない。しかし重病にもかかわらず、レンクイスト判事は辞めない。あと1年ぐらいは続けたいと言っている。それなら夫の病状からして自分が先に辞めるしかない。オコナー判事はついに引退を決意する。夫の看病を仕事に優先させた。

後任判事を選ぶには

 最高裁判事任命の機会はなかなか巡ってこない。ブッシュ大統領も第1期にはまったくチャンスがなかった。それでもブッシュ・ホワイトハウス法務部のチームは、2001年に政権が発足して以来、連邦判事候補の検討を重ねていた。連邦控訴裁判事の人事も、将来最高裁判事の候補になりうる人物を選ぶので重要である。最高裁に欠員が生まれる場合にそなえ、候補たりうる人物の情報を常に更新しておく。次回は正真正銘保守派の判事、すなわちロー判決を否定する最高裁判事を任命したい。それが彼らの究極の目標である。
 レンクイスト判事の癌が明らかになると同時に、ホワイトハウスのロイヤーたちはがぜん活気づく。遅かれ早かれ、大統領は新しい最高裁判事を指名し、首席判事を決めねばなるまい。選挙運動中から「憲法を厳格に解釈し、司法の役割に徹し、特定の社会政策実現のために判決を下さない」判事を望むとたびたび述べていたけれども、ブッシュ大統領はそれ以上はっきりした憲法観、司法観を持ち合わせているわけではなさそうであった。「ショート・リスト」と呼ばれるもっとも有望な候補のリスト作成は、ホワイトハウスのロイヤーたちに任せる。
 いったい候補選定にあたって何が考慮されるのか。第1は言うまでもないが、すぐれたロイヤーであること。連邦最高裁はアメリカで司法の頂点にあり、その判決はすべての下級審を拘束する。責任が重い。また複雑な憲法や法律の解釈を、だれでもできるわけではない。毎年提起される数多くの事件を取り扱い、質の高い判決文を書かねばならない。仕事の量も多い。保守思想を持っていてもロイヤーとしての能力が高くなければ、とてもつとまらない。実際過去には最高裁判事になったものの、職務を遂行するのが難しくて辞任した判事がいた。
 第2に、保守的な司法思想の持ち主であること。いくら能力が高くてもこの条件を満たさないと、福音派のキリスト教団体など政権を支える保守層の支持が得られず、指名そのものができなかった。フォード大統領が任命したスティーブンス判事、ブッシュ41代大統領が任命したスーター判事のように、就任したとたんに進歩的な判決を下すような判事は何としてでも避けたい。そのためには指名の前にその司法思想を確かめておく必要がある。その点で憲法問題について過去の発言や書物がない人物は確かめようがなく、したがって指名にはリスクが高いとみなされた。
 第3に、いったん指名されたあと議会上院で承認を得られる人物であること。上院での議員数は共和党が55、民主党が45と、共和党が優勢だが、民主党はフィリバスターと呼ばれる牛歩戦術の一種によって判事候補の承認を無期限に遅らせ断念させる手に出ていた。たとえば延々と演説を続けたりして議事進行を妨げるフィリバスターをやめさせるには、上院のルール上、60票の賛成が必要である。両党はこの問題をめぐって激しく対立したが、2005年5月末、超党派の議員14人が集まり、「判事候補のフィリバスターは特段の事情がある以外は行わない」という妥協案を提示し、これが本会議で採択される。「特段の事情」が何かは、はっきりしない。しかしかつて上院の承認が得られなかったボーク判事のように極端な保守的思想の持ち主に対しては、「特段の事情」にあたるとして民主党議員がフィリバスターで抵抗する可能性があった。もちろんプライベートなスキャンダルを抱えているような人も承認を得られないから、候補はあらかじめ徹底的にいわゆる身体検査を受ける。
 以上に加え、ブッシュ大統領は判事候補の多様性を重視した。女性や少数民族出身者を積極的に推す。共和党の支持基盤拡大という政治的目的達成のためである。特にブッシュ政権はヒスパニック系アメリカ人の支持獲得に熱心であった。テキサス出身であることもあり、大統領はスペイン語に堪能である。民主党に先んじて、ヒスパニック系最初の最高裁判事を任命したい。ブッシュ大統領はそう願っていた。

大統領、ロバーツ判事を指名

 最後の点については、実は絶好の候補がいた。司法長官のアルベルト・ゴンザレスである。メキシコ系移民の貧しい家庭に生まれたこの人はテキサスで育ち、高校を卒業し空軍の兵士としてつとめた後、ライス大学からハーバード大学ロースクールへ進む。1982年の卒業後、ヒューストンの有名な法律事務所で働いた。1994年、当時のブッシュ州知事が彼を法務顧問として起用、州内務長官を経て1999年テキサス州最高裁の判事に任命する。2001年大統領としてワシントンに乗り込む際にゴンザレスを伴い、第1期にはホワイトハウスの法務部長、第2期の始まりに司法長官へ任命した(どちらもヒスパニック系として初めて)。政権の保守的司法観を代表する人物であるだけでなく、大統領と個人的に非常に親しく、理想的な最高裁判事候補だと思われた。
 ところがこともあろうか、保守派から強い反対が出た。テキサス最高裁判事のときに妊娠中絶に寛容な判決を一度下しているというのである。それに、ゴンザレス氏には、憲法解釈についての見解を表す論文や記事がなかった。大統領がいくら気に入っているとはいえ、彼らはゴンザレスがスーター判事のように、任命後中道派あるいは進歩派の判事に変容するのを恐れた。このためゴンザレスは、ショート・リストに載らなかった。
 レンクイスト判事の辞任が近いとの判断のもと、2005年5月にショート・リストの5人がワシントンへ呼ばれた。そして1人ずつチェイニー副大統領、ゴンザレス司法長官その他から面接を受ける。さらにオコナー判事が引退を表明して間もなくの2005年7月15日、5人はブッシュ大統領の面接を受けた。大統領は5人のなかでも特に、ジョン・ロバーツ候補とすぐ気があったらしい。中西部で育った人に特有の、きどらない謙虚な人柄が大統領に好印象を与えた。
 この人は、ロイヤーとしてこれ以上望めないと思われるようなすばらしい経歴をもつ人物である。
 1955年生まれ。ハーバード大学の学部とロースクールを最優等の成績で卒業する。リベラル派が依然優勢であった1970年代の大学で、保守的な思想をもちながら誰からも好かれた。卒業後はニューヨークを本拠とする第2巡回区連邦控訴裁判所の高名なフレンドリー判事、連邦最高裁レンクイスト判事の助手をつとめる。レーガン政権の司法長官特別補佐となり、続けてホワイトハウス法務部に勤務。ワシントンの法律事務所に加わり働いたあと、ブッシュ41代大統領の政権下の訟訴長官のオフィスで次席をつとめた。まだ37歳であったにもかかわらずロバーツの名声は高く、1992年、同大統領はこの人をコロンビア特別区の連邦控訴裁判事に指名する。しかしこのときは議会上院の民主党議員の反対を受け承認されなかった。その後およそ10年間、39回も最高裁判事の前で口頭弁論を行い、さらにロイヤーとしての名声をあげる。一方でクリントン大統領のスキャンダル調査など、政治的論争にはなるべく首をつっこまなかった。このロバーツを、ブッシュ43代大統領が再び同じ控訴裁判事に指名し、2003年上院が満場一致で承認、就任した。将来の最高裁判事候補と目されての人事であった。
 政権の内外にロバーツの保守思想について多少の疑念をもつ者がいたけれども、大統領の面接と同じ日にコロンビア特別区連邦控訴裁が下したテロリスト容疑者に関するハムダン事件判決で、ロバーツ判事が政権の立場を支持する意見を著したとわかると、保守派の疑いも氷解した。7月19日、大統領はロバーツに電話をかけて最高裁判事就任を要請、その日の夜ロバーツ夫妻と2人の小さな子供たちをホワイトハウスに招き、オコナー判事の後任としてロバーツ判事を指名するとプレスに発表した。上院司法委員会での公聴会は、9月6日開始と決まる。

レンクイスト判事の死とロバーツの首席判事任命

 ブッシュ第2期の最高裁人事は、政権が直面したその他の問題もからまり、まだまだドラマにことかかない。オコナー判事が引退を表明したのに対し、病身のレンクイスト首席判事は最高裁にとどまった。なんとかあと1年くらいは首席判事の仕事を続けたい。それは病と戦う覚悟そのものだったのであろう。秋になってかつて自分の助手をつとめたロバーツ判事を最高裁へ迎えるのも、楽しみにしていた。判事とその元助手が最高裁で一緒にベンチに座るのは、歴史上かつて例がなかった。けれども夏のあいだに病状はしだいに悪化する。そして9月3日、ヴァージニアの自宅で息を引き取った。ロバーツの公聴会開始予定日の3日前である。
 レンクイスト判事の死去は、大統領に新しい決断を迫る。今回の選定作業は、そもそも同判事の後任を検討するために始まった。ところが病状がいくぶん回復し辞める気配がなかったので、ロバーツ判事は先に引退を表明したオコナー判事の後任として指名される。ところが公聴会が始まる直前に、当のレンクイスト判事が亡くなった。この事態を受けて、2つ決めねばならないことがあった。第1に後任の首席判事を誰にするか。第2にレンクイスト判事の後任を誰にするか。
 この2つは別の決断である。たとえば1986年にバーガー最高裁首席判事が引退を表明したとき、レーガン大統領はまず後任の首席判事を9人の現職判事のなかから選んだ。選ばれたのは今回亡くなったレンクイスト判事である。そしてバーガーの辞任によって(同時にレンクイスト判事の昇任によって)生まれた欠員は、スカリア判事の任命で埋めた。このやり方だと、首席判事任命と新判事任命の2つ、議会の承認を得ねばならない。
 ただし2つを1回で済ます方法がある。新しい首席判事を最高裁内部からではなく、外部から選べばいい。新判事にとって最高裁判事の仕事をこなすだけでも大変なのに、いきなり首席判事として最高裁のマネジメントもこなすのは、相当負担が大きい。それでもバーガー首席判事は連邦控訴裁判事から、その前任のウォレン首席判事はカリフォルニア州知事から、直接首席判事となっていた。
 実はそれ以前から、現職判事のなかから首席判事を選ぶ動きがあった。特にチェイニー副大統領は、友人でもあるスカリア判事の昇進を推していた。保守的司法観の持ち主として、また最高裁判事としての経験と年次において妥当な人選である。ただ攻撃的なこの人の性格ゆえに、ほかの判事とうまくやっていけるかどうかわからなかった。
 ブッシュ大統領の決断は、しかし単純かつ迅速であった。今新しい首席判事を選び、指名し、議会の承認を得るには、多くの時間と人的資源を要する。最高裁内部から首席判事を選べば、もう1人新しい判事を選ばねばならない。一方、ロバーツ判事の指名は、すでに圧倒的な好感をもって国民から受け止められていた。これから始まる議会上院の公聴会でもすんなり承認されるだろう。それなら彼をレンクイスト判事の後任として首席判事にすればいい。能力の高いこの人ならつとまる。議会の承認もすぐ得られるだろう。オコナー判事は後任が決定するまで最高裁判事としてとどまると言っている。彼女にはしばらく待ってもらおう。
 当時、第2期のブッシュ政権はいろいろと深刻な政治問題を抱えていた。この年の春には、イラクで初めての総選挙が無事に行われ、議会が発足し、民主化の第一歩が踏み出されていた。しかしその後も反政府側の攻撃は激しく、毎月多数のアメリカ兵が死に、イラク戦争は泥沼化していた。これに加えて、8月末、巨大ハリケーン、カトリーナがルイジアナ州のニューオーリンズとその周辺を襲い、甚大な被害をもたらす。ところが政権の対応が遅く、事態が改善しないため、ブッシュ政権の信用が大きく損なわれた。大統領の支持率は顕著に下がった。最高裁の人事でこれ以上問題を抱えたくない。
 レンクイスト判事の死からわずか2日後の9月5日、大統領はロバーツ判事を後任の首席判事に指名すると発表する。この決定を受けて、ロバーツ判事の公聴会の開始は急遽9月12日まで延期された。上院司法委員会は、ロバーツ判事が最高裁の新判事としてだけでなく、首席判事としても適任であるかどうか審議することになったのである。
 ブッシュ大統領の予想したとおり、ロバーツ判事の公聴会での証言は、見事であった。難しい質問には言質を与えなかったが、真摯に答え、笑みを絶やさない。まったくメモを見ないで、憲法の歴史や判例についてすらすらと答える。9月22日、司法委員会は13対5でロバーツを承認、1週間後の9月29日、上院本会議も78対22で承認した。同日ホワイトハウスでスティーブンス判事の司式によって宣誓を行い、第17代の若い首席判事が誕生する。彼はまだ50歳であった。

マイヤー女史の指名と撤回

 ロバーツ判事の就任によって、11年ぶりで最高裁に新しい判事が就任した。首席判事が交代した。レンクイスト・コートがロバーツ・コートに変わったのである。首席判事の年齢からして、ロバーツ・コートは今後30年ほど継続する可能性が十分ある。最高裁判事に40代後半から50代前半の比較的若い判事を任命するのが、最近の傾向である。自分が任命した判事には長くつとめてほしい、自らの任期のあとも影響力を及ぼしたいと願うのは、左右を問わず大統領の共通の願いらしい。
 しかし最高裁の人事がこれで全部片付いたわけではない。本来はロバーツ判事と交代するはずだったオコナー判事の後任が決まっていなかった。政権はロバーツ判事が議会上院の承認を受けるまで、この問題を先延ばしにしていた。わざわざ問題を複雑にする必要はない。しかしロバーツ判事が就任した今、いよいよ決めねばならない。
 オコナー判事後任の選定にあたって、大統領の関心はおそらく2つあった。1つは、当時難しい政治問題を抱え議会民主党との関係が難しいなかで、次の最高裁人事もなるべくスムースに片付けたい。もう1つは、できれば女性判事を指名したい。どちらも最高裁判事のロイヤーとしての能力や憲法観・司法観より、政治的な計算にもとづくものである、もともと女性の支持率が低い共和党の大統領としては、女性判事の任命は魅力的な選択肢であった。ローラ夫人も女性判事の任命を期待すると公の場で話していたし、オコナー判事はロバーツの任命を喜んだものの、「女性でないことだけが残念ね」とコメントしていた。
 問題は、最高裁判事としてふさわしい保守派の女性ロイヤーが、なかなか見つからないことである。保守的な女性判事がいなかったわけではないが、主張が過激すぎて議会民主党の抵抗が必至であったり、最高裁判事の職をつとめるには能力の点で疑問があったりする。実はレーガン大統領が女性判事任命をめざして人選に苦労した。結局、当時アリゾナ州の控訴裁判所判事であり、全国的にはまったく無名のオコナー判事を指名する。幸いなことにオコナー判事は最高裁判事を立派につとめるだけのロイヤーとしての能力と見識、そして華やかさがあって、国民から圧倒的な支持を受け、この人事は政治的には大成功であった。しかし彼女の最高裁判事指名は一種のかけでもあった。ブッシュ大統領も、同じ問題に直面した。
 いろいろ検討を重ねた結果、ブッシュ大統領が選んだのは、ホワイトハウス法務部長のハリエット・エラン・マイヤーである。10月3日ホワイトハウスで大統領は彼女を伴って記者団の前に立ち、マイヤー女史の指名を発表する。
 1945年生まれのマイヤー女史はテキサス州ダラスの出身。大学学部在学中に父を亡くし、奨学金を得てサザン・メソジスト大学のロースクールを卒業。連邦地裁判事の助手をつとめたあと地元の法律事務所へ就職し、訴訟専門のロイヤーとして20年間働く。この間、ある訴訟でテキサス州知事になる前のブッシュの代理人をつとめ、彼の目にとまった。そしてブッシュが大統領に就任するとワシントンに移り、ホワイトハウスのスタッフとして働き、第2期のはじめ、司法長官に昇進したゴンザレスの後任としてホワイトハウス法務部の長に任命された。福音派の教会に属する熱心なクリスチャンで、保守的な思想をもち、大統領に絶対の忠誠を誓う。大統領の信任もあつい。しかもロバーツ判事選任の過程で、民主党の上院院内総務であるハリー・リード議員からも信頼されていた。議会の公聴会は問題なく通るだろう。何よりも、彼女は女性であった。
 ところが、この人事は発表されたとたんに壁にぶつかる。保守派の支持層が一斉に強い異議を唱えたのである。彼女がそれまでまったく憲法訴訟をあつかったこと、論文を書いたことがなく、その憲法観がまったく不明だったのが反対の理由である。最高裁判事になったとたんにマイヤー女史が進歩的な判事に豹変するのを、保守派の有力者は何よりも恐れた。民主党の議員たちが、彼女に強く異議を唱えないことも、彼らの不安をあおった。その上、マイヤーが公聴会に向けて根回しのために訪問した上院司法委員会の議員たちも、あまりよい印象を受けなかった。最高裁判事になるには、経験不足である。保守派支持層と議員の支持がなかなか得られず、情勢は次第に悪くなる。あくまでも大統領に忠誠を誓うマイヤー女史は、悩んだあげく、10月26日に大統領へ電話をかけて、指名を取り下げるよう要請し、受け入れられた。こうしてオコナー判事の後任選びは、振り出しに戻る。

アリト判事、オコナー判事の後任となる

 マイヤー女史の指名撤回は、ブッシュ政権にとってマイナスであったが、大統領の反応は素早かった。4日後の10月31日、大統領は第2巡回区連邦控訴裁判所のサミュエル・アリト判事をオコナー判事の後任に指名する。この人はレンクイスト判事後任候補のショート・リストに、もともと載っていた人である。
 アリト判事はロバーツ判事と同様、将来の最高裁判事として申し分のない経歴を有する人物である。1950年ニュージャージー州で生まれ、プリンストン大学からイェール大学ロースクールに進み、優秀な成績で卒業。最高裁判事の助手にはなれなかったものの、レーガン政権で訟訴長官のオフィス、また司法省のオフィス・オブ・リーガル・カンセルで働き、ロイヤーとしての腕を磨いた。1987年にはニュージャージー州で連邦検事に任命され、組織暴力などの事件を手がける。1990年にはわずか40歳でブッシュ41代大統領からニュージャージー州を管轄とする第3巡回区連邦控訴裁判所判事に任命された。
 アリトは学生時代から一貫した保守思想の持ち主である。レーガン政権下でオフィス・オブ・リーガル・カンセルへの移動を申請するレターのなかで、彼は明確にロー判決は覆すべきだと述べている。1991年には、後に最高裁が上告を取り上げるケーシー事件の控訴裁の法廷判決に加わり、妊娠中絶を望む女性に一定の義務と制限を課すニュージャージー州の法律を合憲とした。しかも3人の判事のうちただ1人だけ、同法の中絶実施前に夫への通知を義務づける部分も、合憲だと判示する。1992年のケーシー判決で、最高裁のオコナー判事はまさにこの部分を違憲として法廷判決に加わり、ロー判決は覆らなかった。そのアリト判事がオコナー判事の後任に指名されたのは皮肉である。オコナー判事は自分の後任にアリトが指名されたことを、喜ばなかったと伝えられる。
 上院司法委員会での公聴会は、2006年1月9日に開始された。アリト判事はロバーツ判事に比べて、その保守的な憲法観が明確であり、記録が残っていた。またロバーツ判事ほど弁舌がさわやかでなかった。司法委員会の民主党議員たちは、一戦交えようと手ぐすねを引いて待っていた。アリトの証言はあまりスムースではなかったが、民主党の議員もまた効果的な尋問ができなかった。ロー判決を明確に否定した文書について聴かれると、自分自身が過去に行った解釈には拘束されないと述べて、かわす。そしてロー判決についての現在の立場を聞かれると、ほかの憲法問題と同じく、何にもとらわれず丁寧に分析すると述べるにとどめ、明らかにしない。ケネディー議員が意地悪な質問を繰り返した次の日、共和党の議員が、ケネディーの質問の仕方を非難し、「あんな言われなき質問を、傍聴しているご家族はずっと聞かねばならない」と同情の意を示すと、アリト夫人が突然泣き出して公聴会の部屋を飛び出した。この場面は全米に中継され、アリト判事とその家族は大いに同情をかった。
 結局司法委員会は1月24日、10対8でアリト判事の最高裁判事就任を承認する。民主党のジョン・ケリー議員は、本会議でのフィリバスター実施を提案したものの、同僚議員の賛成を得られなかった。共和党の上院指導部は、もし強行すれば「特段の事情があるときに限る」とする妥協の申し合わせを破棄し、フィリバスターをいっさい認めないというルールを制定すると牽制する。結局フィリバスターは起こらず、1月31日、上院本会議は58対42で、アリト判事の就任を承認する。
 こうして2004年10月のレンクイスト首席判事の病気、2005年7月のオコナー判事引退表明を皮切りにはじまった一連の最高裁人事をめぐるドラマは、1年2ヶ月ほどかけてようやく終わる。レンクイスト判事に代わってロバーツ判事が、オコナー判事に代わってアリト判事が就任し、最高裁は文字通り新しい体制となった。



 







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