憲法で読むアメリカ史 タイトル画像

憲法で読むアメリカ史

第25回 最高裁、大統領を選ぶ

 

クリントン政権の終わり

 1999年2月12日、弾劾裁判で無罪となり解任を免れたクリントン大統領は、まだ任期を2年近く残していた。大統領はさすがにそれまでの行いを改め、大統領の仕事に専心する。
 1999年3月から6月まではNATO同盟国と共にコソボ空爆に踏み切り、イラクでは強硬姿勢を崩さないサダム・フセインとの駆け引きを続け、ケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破(1998年)、イェメン停泊中の米海軍駆逐艦自爆攻撃(2000年)と徐々に攻勢を強めるイスラム原理主義テロへの警戒と対処を続けた。しかし経済の好調、財政赤字克服もあって、アメリカにはまだそれほどの危機感がない。
 この時期、最高裁はやや静かである。クリントンはその第1期にギンズバーグ判事とブライヤー判事を任命し最高裁のさらなる保守化を押しとどめたものの、第2期には引退する判事が一人もおらず、新判事任命の機会がない。レンクイスト、スカリア、トマスが保守派、スティーブンス、スーター、ギンズバーグ、ブライヤーが進歩派、オコナー、ケネディーが中道派という顔ぶれは変わらず、そのバランスからいって先例を踏襲する判決が多かった。
 こうした方向性は、レンクイスト首席判事の舵取りの微妙な変化にもよる。若手判事として当時の進歩的潮流に逆らい、保守的な反対意見をしばしば著していたこの人は、首席判事になり年齢を重ねるとともに最高裁全体の調和に重点を置くようになる。進歩派に鞍替えしたというわけではない。連邦制に関する事件など保守的な憲法観は変えなかった。しかし同時に最高裁の意見を真二つに割ったり過去の判例を根本から覆したりするのは避けるようになった。
 たとえば2000年のディッカーソン対合衆国事件では、いわゆるミランダの警告を確立した1966年のミランダ対アリゾナ事件判決を踏襲する多数意見に加わり、保守派を驚かした。ミランダの警告とは、警察が容疑者の尋問を始める前に必ず伝えねばならない4つのポイントである。被疑者には「黙秘権がある」「証言は裁判で不利な証拠として使われる可能性がある」「尋問の際弁護士の同席を求める権利がある」「弁護士費用が払えないなら、裁判所が任命する」の1つでも伝えないで尋問を開始した場合、その内容を証拠として採用しない。ミランダ判決はそのように判示した。アメリカのテレビドラマで警察官が犯人を逮捕する場面で、よく登場する。レンクイスト判事は、憲法に規定のないこうした警告の内容を最高裁が詳細に決め法執行の現場に押しつけるのは司法権の逸脱だとして、長いあいだ批判していた。ところがディッカーソン判決ではミランダ警告がすでにアメリカ社会で定着している、先例拘束の原則のもと覆すべきでないと、わざわざ述べたのである。
 こうした顔ぶれと首席判事の方針のもと、たとえば妊娠中絶など議論の多い問題に関して最高裁がそれまでの判例を積極的に覆すことは、考えにくかった。最高裁をより保守的な方向にもっていくには、次の大統領選挙で保守的な人物を選び、新大統領に新しい判事を任命してもらうしかない。

2000年の大統領選挙

 こうした背景のもと、弾劾裁判が終わりクリントンの任期が残り少なくなるとともに、共和党、民主党双方で大統領候補を選ぶ過程が始まった。民主党の大統領候補は比較的簡単に決まる。クリントン政権の副大統領を8年間つとめたテネシー州出身の元上院議員、アル・ゴアである。ニュージャージー州選出のビル・ブラッドリー元上院議員がほとんど唯一の対抗馬であったが、現職の副大統領にはかなわず、2000年3月予備選挙の途中で立候補を取り下げる。ゴアは民主党全国大会で、満場一致で大統領候補に選ばれる。
 これに対して共和党の側では多くの人物が出馬を表明し、予備選挙前から活発に運動を行った。そのなかで最初から支持を集めたのはテキサス州の知事として実績を残したジョージ・W・ブッシュ候補と、一部で強い人気のあるジョン・マッケイン上院議員である。他の候補が次々に脱落するなかマッケインは善戦したものの、予備選挙で十分な数の代議員を獲得できず、2000年3月にレースから脱落する。ブッシュの知名度はテキサス以外ではそれほど高くなかったが、ブッシュ家の長男として共和党エスタブッシュメントの全面的支持を受けており強かった。共和党全国大会ではブッシュがマッケインに圧倒的な差をつけ大統領候補に選ばれる。代表の99パーセントから支持を得た。
 両党の全国大会が終わり8月末から始まった本格的選挙戦では、主に国内の問題に焦点があたり、伝統的な保守と進歩のあいだの戦いとなった。好調な経済と比較的安定した国際情勢は民主党に有利であったが、8年間政権から離れていた共和党は何がなんでも政権を奪いかえそうと力を入れる。ゴアはブッシュの経験のなさと失言を指摘し、大統領の職にふさわしいかと問う。当時民主党を支持する私の友人たちが、ブッシュは頭が悪すぎて大統領になったら惨憺たる結果になると強調していたのを思い出す。
 それに対してブッシュはクリントンのスキャンダルを取り上げ、ホワイトハウスに「名誉と威信」を取り戻すと約束し、多くの国民に好感を与えた。彼はローラ夫人のおかげでアルコール依存症から立ち直り、熱心なキリスト教信者になった人物である。ゴアはこの選挙で候補者の清潔さが問われていることを多分に意識し、副大統領としてスキャンダルにまみれたクリントンと一体であったと有権者からみなされるのを嫌った。そして大統領から徹底的に距離を置いて、選挙戦への応援を一切求めなかった。前回述べたとおり、それがかえってゴアの敗戦につながったという見方もある。
 両候補が3ヵ月間激しい選挙戦を戦ったあと、2000年11月7日一般投票の日がきた。東部から投票が始まり早いときはその夜までに勝敗がつくのに、今回はなかなか決着がつかない。多くの州で接戦が続いた。それでも翌8日未明には最後に残ったフロリダ州で勝った候補が大統領に当選することが明らかになる。フロリダを除く49州の選挙人獲得数はゴアが267、ブッシュが246であり、ゴアがフロリダ州の選挙人25人を獲得すると282対246で勝ち、ブッシュが獲得すれば271対261で同じく勝利する。7日の午後8時前、出口調査に基づいて主要テレビ局がいったんゴアの勝利を報じる。しかしすぐにそれを撤回し、午前2時半頃今度はブッシュの勝利を報じる。ところがその後、得票数の差があまりにも小さくて結局決着がつかないことがわかった。一度ブッシュに電話をかけ非公式に勝利を祝ったゴアは、それを撤回した。こうして大統領選挙の勝利者を確定する、新たなドラマが始まった。

得票数の数え直しと司法の介入

 ブッシュ候補とゴア候補の得票数の差があまりにも僅かだったために、フロリダ州の選挙管理委員会は結局3回数え直しを行った。投票日の翌日発表された最終得票数は、ブッシュが290万9135、ゴアが290万7351で、その差わずか1784票である。全投票数の約0.03パーセントと、信じられない僅差であった。
 両者の票差が総得票数の0.5パーセント以下だったため、フロリダ州選挙法の規定にしたがって自動的に機械による数え直しが行われる。この結果差は約1000に縮まったが、依然ブッシュ候補がリードを保っていた。ゴア候補はそこで9日、同じく州法の規定にしたがい抗議申立手続(プロテスト)を行い、67ある郡のうち民主党支持者の多い4郡での手作業による再集計を要求し認められる。ブッシュ陣営は連邦控訴裁に再集計の差し止めを求めたが、却下された。ただし選挙管理の総責任者をつとめるハリス州務長官(共和党の有力支持者)が、投票日から7日以内に集計結果を公式に認定せねばならないという州法の規定に従って、集計の結果提出期限を14日と定めた。4郡のうちまだ3郡でまだ再集計は終わっていなかったが、同日ブッシュ候補がゴア候補を依然として300票上回っているとの結果を発表し、翌日公式認定を行った。
 しかしゴア候補はあきらめない。公式認定の差し止めと再集計期限の延長を求め、州裁判所に訴訟を提起した。州巡回裁判所は申し立てを却下したが、州最高裁は11月21日ゴア陣営の要求を全員一致で認め、11月26日まで再集計期限延長を許可した。ちなみに州最高裁の判事7名は全員過去の民主党知事によって任命された人物であり、そのうち6名が民主党員であった。またこの時のフロリダ州知事はブッシュ候補の弟、ジェブ・ブッシュである。ブッシュ陣営は州最高裁の判決が下されると、すぐに連邦最高裁へ上告した。合衆国最高裁はこの上告を取り上げ、12月4日に全員一致で、州最高裁判決の根拠がはなはだ不明確であるとして事件を差し戻す。このときの口頭弁論の録音テープは、連邦最高裁がそれまでの慣例を破り始めて公表し、全国で流された。差し戻しを受けた州最高裁は判決の修正には応じたものの、再集計期限延長の決定を結局変えない。
 一方、連邦最高裁の審理が終わらないうちに新しい期限と定められた11月26日となり、ハリス長官が結果を発表した。ブッシュは537票の差でまだリードを保っており、長官はこの結果を再び公式に認定する。ブッシュ陣営は勝利宣言の用意にとりかかった。
 ところがゴア候補はまだあきらめなかった。州選挙法によれば公式認定が行われても、その結果に重大な疑義があり逆転の可能性が高ければ、候補者は異議申立手続(コンテスト)を行える。ゴアはこの異議申立を州巡回裁判所に対して行い、却下されると再び州最高裁に上告した。州最高裁は12月8日に4対3の僅差でゴアの主張を認め、再々集計を認める。しかもこれまで再集計がなされていなかった郡を含むすべての郡で、アンダーヴォートという種類の票を再集計するように命じたのである。
 アンダーヴォートというのは、投票者がパンチカードに空けた穴が十分に開かず、膨らんで、あるいはぶら下がって残っている票のことを指す。手作業による再集計がはかどらず問題を複雑にしたのは、機械で読めるパンチカードに穴を空けて投票する仕組みが郡によって異なり、しばしばうまく機能しなかった。その結果、2つ穴を空けてしまったり、完全に空かなかったり、機械が読めない、あるいは手作業でも判定にとまどう票が多数あったせいである。
 ゴア陣営はがぜん息を吹き返した。3度目の集計が始まる。ブッシュ陣営はさらなる集計の差し止めを求め、再び連邦最高裁に上告した。連邦最高裁は翌9日差し止めを認め、同時に州最高裁判決の見直しを行うと発表する。こうしてこの選挙の行方は、9人の最高裁判事に委ねられることになった。
 

最高裁の判決

 最高裁の口頭弁論は、12月11日に行われた。ブッシュ側の代理人は共和党の有力弁護士として知られるセオドア・オルソン、ゴア側の代理人はマイクフロリダ州最高裁で勝利をおさめたデイヴィッド・ボイズ弁護士である。オルソンとともに初めて連邦最高裁で口頭弁論を行ったフロリダ州の司法長官は、緊張のあまりスティーブンス判事に、「はい、ブレナン判事」、スーター判事を「そうです、ブライヤー判事」と間違えて呼んでしまう。ジョークが好きなスカリア判事は、すかさず「代理人、私はスカリアです」と口をはさんで傍聴人をわかせた。なお最初の口頭弁論のときと同様、録音が終了後ただちに公表され全米に流された。
 口頭弁論からわずか30時間後の12月12日午後10時に、最高裁は判決を下した。大統領選挙の帰趨がかかっているとはいえ、異例のスピードである。配布された判決文は全部で65ページ、パーキュリアムと呼ばれる無記名の法廷意見、同意意見、そして反対意見が4つ、合わせて6つの意見からなっていた。複雑でちょっと目を通しただけではいったいどちらが勝ったかわからない。ブッシュ候補が自陣営のロイヤーに電話をかけ、いったい勝ったのか負けたのか尋ねると、ロイヤーがすぐにはわからないと答えたと伝えられている。
 まず無記名ではあるものの、主としてケネディー判事が書いたパーキュリアム判決は、州最高裁が新たに命じたアンダーヴォートの数え直しは、連邦憲法修正第14条が定める法のもとの平等原則に反するゆえに違憲だと判示する。憲法第2条1節は、選挙人の選定方法を各州に任せている。しかし州がいったん州民の投票によって選挙人を選ぶと決めた以上、投じられた票は平等に扱わねばならない。
 ところが州最高裁はアンダーヴォート票のすべてを手作業で見直し、「投票者の意図」が明らかな場合には有効票として認めるよう指示した。この基準はあいまいで役に立たない。実際これまでの再集計でも、数える人によって有効票と認めるかどうかが異なった例がある。ある郡では集計委員会の3人がそれぞれ違った基準で有効票の判断をしていた。再集計の途中で基準を変更した郡もある。またアンダーヴォートのみ数え直すのなら、穴が2つ以上空いていたため無効となったいわゆるオーバーヴォートはどうするのか。そちらにも投票者の意図が読み取れる票があるかもしれず、それを確認しないのは平等でない。したがって州最高裁の再集計基準は、法の下の平等条項に反し違憲である。パーキュリアム意見には、7人の判事がその全部または一部に同意を与えた。
 次にレンクイスト首席判事が著した同意意見にはスカリア判事とトマス判事が参加した。憲法第2条1節2項は、選挙人任命の方法は州議会が定めると規定する。実際フロリダ州法は今回の選挙以前に、集計結果の公式認定、プロテストやコンテストなどについて、細かく手続を定めていた。しかし州最高裁はこうした規定を無視して公式認定を差し止め集計結果提出期限を延長した。そしてあいまいな有効票の認定基準を新たに設定した。こうしたルールの中途変更は州議会の定めたルールを無視し、憲法が定める大統領選挙に関して州議会が有する権限を侵害するものである。また同様の規定を設ける合衆国法典第3篇5条にも反する。同意意見はこう述べた。
 パーキュリアム意見にしたがって、最高裁は本事件を再び州最高裁に差し戻す。ただし判決が下された12月12日は、州が選定した選挙人を連邦議会が無条件で受け入れる期限と連邦法が定める日である。したがってパーキュリアム意見に参加した7人のうち、レンクイスト、スカリア、トマス、ケネディー、オコナーの5判事が、もうこれ以上再集計を行う時間はないと判断、再集計を打ち切るよう命じた。
 一方4人の判事がそれぞれ反対意見を著した。もっとも強く多数意見に反対したのはスティーブンス判事とギンズバーグ判事である。本事件で問われているのは州法の解釈である。州法の最終的な解釈権は州の最高裁判所にある。州最高裁の判決内容に問題がありその構成に党派色が強いとしても、連邦憲法と連邦法そのものに違反したわけではない。したがって連邦最高裁は介入すべきではない。州のことは州に任せるという(保守派判事が平素唱える)州権主義に反する。こう主張した。スティーブンス判事は自身の反対意見に、「今回の大統領選挙でだれが勝ったかを正確に知ることは永久にできないかもしれないが、敗者は明らかだ。それは法による統治の公平な保護者であるべき、裁判官に対する国民の信頼である」と最後に付け加えた。
 パーキュリアム意見に参加したスーター判事とブライヤー判事も、5人の判事が再集計の打ち切りを命じたことには反対した。もし12月12日以降、再集計が続き、最終的にゴア候補の得票数がブッシュ候補の得票数を上回った場合、フロリダ州に2つの選挙人団が生まれる可能性があった。12日までに決着がつかない場合、共和党が多数を占めるフロリダ州議会は独自に選挙人を選ぶ予定であったからである。連邦法はその場合、どちらの選挙人団が正統かは連邦議会が決定すると定めている。もしフロリダ州の投票結果を決めるプロセスが連邦議会にまで持ちこまれれば、さらなる混乱が生じていただろう。しかし大統領の選定は基本的に政治的な過程である。連邦最高裁が多数決によって大統領選挙の結果を決めるよりも、議会で政治的に決定したほうが国民は納得したのではないか。そう論じた。
 どんなに最高裁の判決が複雑でも、判決文をよく読めば一つだけはっきりしていた。判決にしたがってこの再集計が打ち切られた瞬間、11月26日に行われたハリス長官の公式認定が確定する。これによりゴア候補逆転の可能性はなくなった。翌日13日、ゴア候補は最高裁の判決内容には同意できないが決定にはしたがうとの声明を発表し、敗北を認めた。その1時間後、ブッシュ候補はテキサス州議会下院の議場で勝利宣言を行う。
 最終的にブッシュ候補が獲得した25人のフロリダ州選挙人は、連邦憲法と連邦法の規定にしたがって12月18日、州都タラハシーで州民が選んだブッシュ候補にそろって投票した。他州の州都でも同じ日同じように投票が行われ、投票結果を記した証書が連邦上院議長、つまりゴア副大統領あてに送られる。明けて2001年1月6日、下院本会議場で上下両院の議員が見守るなかゴア上院議長の指揮のもと開票が行われ、271票を獲得したブッシュ候補が正式に第43代大統領に選出された。

ブッシュ対ゴア事件判決の意義

 2000年大統領選挙の結果には多くの疑問や批判が呈された。もっとも素朴な疑問は、ブッシュより多くの票を獲得したゴアがなぜ負けたのかというものである。確かに総得票数ではゴアが約5100万、ブッシュが約5046万で、46万(総得票数の約0.4パーセント)の差がついた。それでもブッシュが勝ったのは、憲法が定める各州への選挙人配分システムのためである。
 そもそも憲法は、各州選挙人の数を同州選出連邦下院議員の数に連邦上院議員の数2を足したものと定める。この仕組みは1787年の憲法制定会議以来変わっていない。下院議員は州の人口にもとづいて定員数を決めるが、上院議員の数は州の人口にかかわらず2人と決まっているから、選挙人の州間の割合が人口比と厳密には一致しない。したがって総得票数で負けても選挙人の数で勝つことがありうる。ただし歴史上その例は、1876年、1888年と2000年の選挙しかない。
 この可能性をなくすためには、憲法を改正して選挙人制度を廃止し、国民による直接投票にすればいい。実際1969年から1970年にかけて連邦議会に選挙人制度を廃止して直接選挙に変える憲法修正案が提出され、上下両院の司法委員会を通過した。しかし結局本会議で3分の2の賛成が得られずに終わっている。2000年の選挙のあとにも同様の主張があったけれど、憲法改正には至っていない。この制度を変えれば、連邦制を取るアメリカ合衆国の国のかたちを根本から変えることになり、連邦政府が強力になりすぎる。そう信じる人が多く、憲法改正は実現しそうにない。
 同様に、選挙人の選定方法や機械、手続が州によって(さらには同じ州内でも郡によって)バラバラなことが問題とされた。これもまた憲法が選挙人の選定方法は州議会が定めると規定しているからである。全国共通のシステムで大統領選挙を行うよう義務づけるにはやはり憲法改正が必要であり、この面でも連邦制度をいじって州の自主性をそこなうのに国民は慎重である。
 またフロリダ州での再集計を通じて、そもそも選挙実施の末端に多くの問題があり、それに対処する州法や規則にもあいまいさが残ることがわかった。おそらく他州でも同じ状態であろう。通常は多少の数え間違いなどあっても得票数の差が大きくて問題にならないのが、2000年にはあまりの僅差であったため、こうした問題が吹き出した。選挙で国民の意思を問うのが民主主義の基盤だと言うけれど、たとえば2候補の得票差がたった1票だとしたら、1票多く獲得した候補が国民の意思を体現していると言えるのか。選挙結果の正統性はどこにあるのか。2000年選挙はそうした問題も提起した。
 最後に、選挙の結果を決めるにあたって、司法がどこまで介入できるのかという問題がある。2000年の大統領選挙には州と連邦と両方のレベルで司法がかかわった。州最高裁の2度の判決が党派的であると感じた人は多い。それに合衆国大統領の結果を50州の1つに過ぎない州の裁判所が決めていいのかという疑問が強かった。しかしアメリカの連邦制のもとで州法の最終解釈は州最高裁に任されている。そこへ連邦最高裁が介入し、いささか疑問の残る憲法と連邦法の解釈にもとづいて州最高裁の決定をくつがえし選挙の結果を決めてしまうのは許されるのか。最高裁の判事に党派性はまったくなかったのか。憲法理論に関する難しい議論は別として、そうした批判はゴアの支持者だけでなく、保守派の憲法学者からも表明された。
 この批判に対しては、最高裁のパーキュリアム意見そのものが弁明している。
 「司法権の行使が無制限になされるべきでないことを、当法廷の構成員であるわれわれほど深く認識している者はいない。(中略)しかし選挙の当事者たちが当法廷の判断を求めてきた以上、司法制度に委ねられた連邦法と憲法上の問題を解決するのは、当法廷が避けて通ることのできない責任である」
 これに対してブライヤー判示は、二〇世紀前半の有名なブランダイス判事のことばを引いて、こう反論した。
 「当法廷が行うもっとも重要なことは、行わないことである」
 ただしそうは言っても、国内の2つの大きな勢力が、暴力ではなくあくまでも司法手続で選挙の結果を決めたことには、やはり意味があったと思われる。選挙結果がはっきりしないと、すぐに軍が出動したり反対候補が逮捕、暗殺されたりする国は今日でも多い。批判はあっても手続にしたがって勝者が決まった。敗れた候補者もしぶしぶ認めた。憲法上はそれが最大の意義かもしれない。
 論争は続くものの、2000年12月12日、史上初めてアメリカの大統領が合衆国最高裁によって選ばれた。1月20日の就任式まで、すでに1ヵ月を切っていた。











NTT出版 | WEBnttpub.
Copyrights NTT Publishing Co., Ltd. All Rights Reserved.