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憲法で読むアメリカ史

第23回 クリントン大統領弾劾される?

独立検察官の調査とモニカ・ルインスキーの証言

 1998年12月19日、アメリカ合衆国議会下院はクリントン大統領の弾劾を本会議での投票で決定した。
 前回述べたとおり、ことその発端はクリントン大統領がアーカンソー州知事時代に起こしたセクハラ疑惑にある。ポーラ・ジョーンズに訴訟を提起された大統領は、在職中の民事訴訟免責を主張したものの、1997年5月最高裁が全員一致でこの申し立てを却下し、同訴訟は差し戻されて本格的な審理が始まった。その間に浮上したのがモニカ・ルインスキーというホワイトハウス実習生との、新たなセックス・スキャンダルである。
 1998年1月12日、リンダ・トリップが、国防総省広報部で同僚であったモニカ・ルインスキーとの通話を録音したテープを、ケネス・スター独立検察官のもとへ届ける。通話のなかで、ルインスキーはホワイトハウスのインターン時代に大統領とオーラルセックスをしたことを告白していた。この事実は程なくインターネット上のニュースで流れ、続けてワシントンポストが報じる。全米が騒然となった。
 実はルインスキーは1月7日、ジョーンズ事件の参考人として裁判所へ宣誓供述書(Affidavit)を提出していた。ジョーンズの代理人は訴訟を有利に展開するために、クリントン大統領と他の女性との性的関係、あるいは性的アプローチの有無を探っていた。そうした事実があれば、クリントン知事からセクハラを受けたというジョーンズの主張の信憑性が増す。ところがルインスキーはこの供述書で、大統領と性的関係があったことを否定していた。真実を語ると宣誓したうえで証言を行い、その記録に署名するのが宣誓供述書である。もし虚偽の証言をしたことが明らかになれば、偽証罪に問われる。
 実際トリップとの通話で、ルインスキーは宣誓供述の際に偽証したことを認めていた。スター独立検察官は、通話の内容と宣誓供述書の内容の矛盾に注目する。彼女はだれかの指示で偽証をしたのか。それは大統領自身か。所定の手続きを取ると、独立検察官は本件の本格的な調査に乗り出す。大統領のロイヤーたちは防戦につとめ、両者間の激しい法律戦争が勃発した。
 独立検察官は、調査のために豊富な資金を与えられている。また大陪審を招集して、証人を喚問し証言させる権限を有する。本格的な審問が開始され、それをめぐってマスコミが激しい取材合戦を展開した。次々に新たな疑惑が報じられた。しかし肝腎の大統領本人とルインスキーは、一貫して疑惑を否定し続ける。実際クリントンは疑惑が報じられた1月下旬、ヒラリー夫人も同席した記者会見の場で、自分はルインスキーと持たなかったと明言した。この発言は全米に中継される。疑惑をめぐる報道は過熱するばかりであったが、証拠はトリップが独立検察官に届けた録音テープしかなく、その真偽ははっきりしなかった。
 この間、スター独立検察官は密かに証人を大陪審に召喚して調査を続けた。ルインスキーも考えを変えたのだろう。半年後の7月28日、ジョーンズ事件での偽証罪による訴追免責を条件に大陪審で証言を行うことに同意する。そして大統領執務室で少なくとも9回性的行為に及んだことを包み隠さず明らかにした。それだけではない。クリントンの精液がついた自分のドレスを証拠として大陪審に提出する。DNA判定の結果、大統領のものに間違いなかった。

大統領の偽証疑惑、大陪審での証言、弾劾

 この証言と証拠は、全米に向かって一切性的関係はないと言い切った大統領の発言とまったく矛盾していた。しかも大統領はジョーンズ訴訟で行った宣誓供述でも、ルインスキーとの性的関係を否定していたのである。偽証の疑いが濃厚となる。偽証はアメリカの法律上は重罪とされ、連邦法では5年以下の懲役が科されうる。まして国政を預かる大統領が国民に嘘をついていたとすれば、問題は深刻である。ルインスキー事件は、ここへ来て重要性が一気に増した。
 スター独立検察官は、大陪審で証人として証言するよう大統領に召喚状を発する。アメリカの歴史上、任期中の大統領が大陪審に召喚された例は、それまで1度もなかった。大統領のロイヤーと独立検察官事務所のロイヤーのあいだで交渉が行われ、結局8月17日、大統領はホワイトハウスの自室で「自発的」に独立検察官と大陪審の尋問に応じた。独立検察官と大統領のロイヤーはホワイトハウス、陪審員はビデオ中継で裁判所から大統領に質問をし、証言を聴いた。大統領はルインスキーと不適切な肉体関係があったことをしぶしぶ認める。しかし性的関係があったことは引き続き否定した。自分の理解では性的関係とは性器の結合を伴うものである。(オーラルセックスしかしていない)自分はそのような関係にはなかった。また「ない」と証言したのは、証言の時には「ない」と言ったので虚偽ではない。したがって法律上偽証はしていない。いかにもロイヤーらしい証言である。
 その夜クリントンは全国民向けのテレビ演説で、ルインスキーとの関係について国民を欺いたことを詫びた。同時にもっと重要な国家の問題に焦点を当てるよう国民に呼びかけた。
 大統領尋問のビデオテープは、21日の朝全米にテレビで放映される。たまたまその時ヴァージニア・ロースクールで教えていた私は、学校のラウンジに集まった学生たちがクリントンの証言を聴いていたのをよく覚えている。クリントンは当惑しきった顔で質問に答えていた。そして苦し紛れの証言をするたびに、学生達が大笑いした。大統領の威信が地に墜ちたと思った。
 クリントン自身の証言、ルインスキーはじめ関係者の証言、その他の証拠をもとに、スター独立検察官は大部のレポートを作成、これを9月11日、議会下院に提出する。調査の結果、大統領を弾劾するに足る信頼すべき十分な証拠が存在すると断言した、このいわゆるスターリポートは、「正確を期するために」大統領とルインスキーの関係を詳細に記載しており、ポルノ小説顔負けの内容である。スターリポートは政権の反対を押し切って、一般にも公開された。
 報告書を受け取った下院司法委員会は、これを検討した結果、11月5日大統領に81の質問状を送りつける。さらに同月19日、委員会は弾劾の可能性について公聴会を開始した。その結果、12月19日、下院本会議が大統領の弾劾を決定したのである。

憲法が定める弾劾制度

 そもそも弾劾とは、どんな制度なのだろうか。その起源は中世のイギリスに遡る。本来、立法権、行政権、司法権はすべて君主に属し、それぞれの権限を臣下が行使した。三権の境はあいまいで、たとえば議会貴族院は長く司法権の一部を行使していた(実際2009年に最高裁判所が別途創設されるまで、貴族院に属する12人の司法貴族(Law Lords)が最終審として機能していたのは、その名残である)。貴族院による司法権行使権限の対象範囲は次第に狭められ、一般の法廷に移されたが、残された一つが、庶民院(下院)が貴族に対して提起する訴訟を裁く権限である。これが「弾劾 (Impeachment)」と呼ばれる制度の起こりだと言われる。もっとも古くは1376年に行われた記録がある。この制度は17世紀になって、王に仕える高官を訴追する手段として盛んに使われるようになった。スチュワート朝の王とその臣下たちの横暴に対し、下院に集まった反王党派はこの手段を用いて戦った。
 アメリカ憲法が制定されたとき、起草者たちは連邦政府高官の公務中の犯罪を裁く制度として、この制度を導入した。フィラデルフィアでの憲法会議でベンジャミン・フランクリンが、歴史上政府の長を解任する手段は暗殺しかなかった、それを防ぐために弾劾の制度を設けようと提案したという。
 イギリス議会にならい、憲法第1条2節5項は弾劾を行う権限を議会下院に、同条3節6項は弾劾裁判を行う権限を議会上院に、それぞれ独占的に与える。後者はさらに、大統領の弾劾裁判は最高裁判所の首席判事が指揮し、有罪の判決を下すには裁判に出席した上院議員3分の2の賛成を要すると定める。同条3節7項は、弾劾裁判の結果有罪判決を受けた者はその職を解任され合衆国の公職につく資格を失うと定める。つまり弾劾裁判においては議会下院が大陪審あるいは検察官のように弾劾(つまり起訴)し、議会上院が裁判所、上院議員が裁判官もしくは陪審員のごとくこれを裁く。そういう仕組みである。
 憲法第2条4項は、「大統領、副大統領、そしてすべての合衆国文官が、反逆罪、汚職、その他重罪および軽罪」の嫌疑で弾劾され有罪になれば解任されると、別途定める。合衆国文官のなかには、連邦行政府の役人だけでなく、連邦裁判所の判事も含まれる。なお大統領を裁くときに最高裁判事が裁判を指揮するのは、通常上院議長をつとめる副大統領が大統領解任によって自ら大統領に昇格する可能性があるからだろう。利益相反を防ぐ規定である。
 憲法が制定され連邦政府が発足して以来、下院は62回弾劾の手続きを開始し、そのうち19回実際に弾劾を行った。弾劾された19人中15人は最高裁判事1人をふくむ連邦裁判所の判事である。残りの4人は大統領が2人、陸軍長官が1人、上院議員が1人だった。弾劾を受けた者のうち、有罪になり解任されたのは判事8人、他に判決が出る前に辞職した者が4人いる。

チェース最高裁判事の弾劾

 アメリカ合衆国憲法史上もっとも有名な弾劾は、1804年のサミュエル・チェース最高裁判事、1868年のアンドリュー・ジョンソン大統領、そして1998年のクリントン大統領に対するものである。弾劾されたのがそれぞれ司法府と行政府の長であったため、憲政上の大事件として大きな注目を浴びる。なおリチャード・ニクソン大統領の場合は、ウォーターゲート事件調査の結果、1974年7月末に議会下院の司法委員会が弾劾を決議したものの、弾劾裁判での有罪判決と解任がほぼ確実だと知った大統領が自発的に辞任したため、下院そのものによる弾劾には至らなかった。
 このうちチェース最高裁判事の弾劾には、19世紀初めの連邦党と民主共和党の激しい対立が背景にある。チェースをふくむ多くの連邦党出身判事たちは、アダムズ前政権のもとできわめて党派的な判決を下しつづけ、1800年の大統領選挙ではアダムズ候補の選挙運動を公然と応援した。チェース判事はジェファソンが新大統領に選ばれたあとも、大陪審の審理中に公然と民主共和党が支配する新政権と議会を攻撃した。これを受けて議会下院は、1804年3月多数決で同判事の弾劾に踏み切る。連邦党の議員たちは司法を政争の具にすべきでないと訴えたが、民主共和党の強硬派は、司法を政治化したのはチェースをふくむ連邦党の判事だと反論した。
 翌1805年の1月、議会上院で弾劾裁判が行われた。ただし下院から送られた弾劾状には、具体的な法律違反を根拠とした訴因が何も記載されていなかった。チェースの代理人は、弾劾はあくまで法的な手続きであり、実際に刑法違反がないかぎり有罪とすべきでないと主張する。これに対し強硬派は、弾劾は刑事法手続きではなく政治的な性格のものであり、具体的な法違反を申し立てる必要はないと主張した。要は憲法に規定された「重罪および軽罪」とは何かが問題となったのである。
 当時民主共和党は弾劾裁判で有罪判決を下すに必要な3分の2以上の議席を上院で占めていた。しかし同党内にも強硬派が主張するきわめて政治的な弾劾裁判のやり方に懐疑的な議員がいて、彼らは政策面でも強硬派と対立していた。したがって訴因それぞれについて採決が行われると、有罪票がいずれも3分の2に達せず、チェースは無罪となる。
 この時から今日まで、連邦最高裁判事が弾劾されたことは一度もない。もしチェース判事が有罪になり解任されていたら、その後の連邦司法は議会の意向にかなり左右され、現在のような独立性を維持できなかっただろう。これより2年前、マーベリー対マディソン事件判決でマーシャル判事がうち立てた司法審査と並んで、チェース弾劾の結果は今日の強力な司法の基を築いた。

ジョンソン大統領の弾劾

 アンドリュー・ジョンソン大統領の弾劾もまた、政治的な色彩がきわめて濃かった。南北戦争が終わった直後の1865年4月にリンカーン大統領が暗殺され、急遽大統領に昇格したジョンソン大統領は、もともと南部の出身であり、融和的な南部再建政策を説いて、大胆な改革による南部再建を望む共和党のいわゆる過激派(Radicals)と真っ向から対立する。議会と大統領の対立は、1867年夏ジョンソン大統領が共和党過激派に近いスタントン陸軍長官を罷免し、新しい陸軍長官を任命したことによって頂点に達する。この罷免は軍による南部再占領を通じて改革を推し進める議会の方針を否定するものだった。スタントンは罷免を拒否して陸軍省内にたてこもる。
 これを受けて議会下院は大統領の弾劾手続きを開始した。スタントンの罷免は、大統領が下僚を罷免するには上院の同意を必要とするという最近制定された役職任期法に違反する。これが弾劾の根拠となった。1868年2月下院は弾劾を決議する。上記法の違反だけでなく、大統領が議会を侮辱したこと、また軍事再建法の実施を妨げたことを訴因として挙げた。
 上院における弾劾裁判はサーモン・チェース最高裁首席判事のもとで1868年の3月30日に始まり、双方が主張を行う。この裁判でどのような手続法を用いるべきかの判断はチェース判事に委ねられ、結局一般の訴訟と同じ証拠法などが適用された。
 上院での審理は5月まで続き投票が行われたが、有罪に必要な3分の2にわずか4票及ばず、ジョンソン大統領は結局解任を免れる。共和党が支配する議会がジョンソン大統領を有罪としなかったのは、議員のなかにこの弾劾はかなり無理があると感じる者がいたからだろう。
 解任は免れたといっても、弾劾裁判によって議会に対する大統領の力は著しく弱まった。しかしもしこの弾劾裁判でジョンソン大統領が有罪となり解任されていたら、政策上の見解を異にする大統領を議会は弾劾を通じて解任できるという、憲法上の重要な先例が樹立されていた。大統領に4年の任期を無条件で保証する憲法上の制度が弱体化し、3権分立の原則が崩れる。連邦議会と大統領の関係が議員内閣制に近いものとなる。少なくともそれが防がれたという意味で、ジョンソン大統領の弾劾の結末には、大きな意義があった。









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