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憲法で読むアメリカ史

第21回 1990年代の最高裁とクリントン大統領の再選

議員の任期制限と憲法

 ヴァージニア大学ロースクールで私が1年間もっぱら憲法のことを考えていたその前後に、合衆国最高裁はさらに2つ、保守派と進歩派の主張が真っ向からぶつかる判決を下した。その1つは1995年5月に下された合衆国任期制限協会対ソーントン事件判決である。
 合衆国憲法は連邦議会上院議員の任期を6年、下院議員の任期を2年、大統領の任期は4年と定める。最高裁判事をふくむ連邦裁判所判事の任期は無期、弾劾裁判で有罪判決を受けず、仕事が十分できるかぎり、いつまでもその地位にとどまることが許される。議員、大統領、判事の任期をこのようにずらしたのは、特定の党派が3権を1度に掌握しないようにするという、憲法制定者の知恵であろう。ただし1951年に制定された憲法修正第22条が大統領の再選は1度だけ、最長任期8年と定めるのに対し、連邦議員の再選については憲法に何も規定がない。したがって議員は選挙に勝ちさえすれば何年でも議会にとどまれる。
 たとえば2012年12月に亡くなったハワイ州選出のダニエル・イノウエ氏は、下院議員を2期4年つとめたあと、1963年から亡くなるまでの49年間、上院議員として活躍した(あと16日で勤続50年に達するはずであった)。その間、7回再選されたことになる。イノウエ議員より長いのは、1959年から2010年まで連続51年間つとめたウェストヴァージニア州選出のロバート・バード上院議員しかいない(ただし下院には同院議員を57年間つとめたジョン・ディンジェル議員がいて、まだ記録更新中である)。
 日系人のイノウエ議員は第2次世界大戦の英雄でもあり、議員として党派を超えて尊敬されたけれども、再選を重ねる議員のなかにはとかく特定の利益団体や地元への利益誘導を指摘される人がいる。バード上院議員は歳出委員会委員長として自分の選挙区であるウェストヴァージニア州へ連邦予算を回すことで有名であり、内陸の小さな貧しい州でありながら同州は国道(インターステートハイウェー)をはじめ連邦予算を使った公共事業がきわだって多い。こうした背景のもと、何回でも再選が可能な上下両院議員の選挙制度は好ましくない、大統領と同様議員の任期にも制限を課そうという、いわゆるタームリミッツの運動が、1990年代初頭に活発化する。
 任期制限の主張は憲法制定以来あって新しいものではない。しかしこの時期運動が盛んになったのは、再選を繰り返し議会での影響力を高める議員の多くが民主党議員であったこと、1990年代前半連邦議員をめぐるスキャンダルやずさんな公金使用が次々に明るみに出たことに関係があるだろう。実際1994年の中間選挙で共和党が勝つまで、議会上院では1986年以来、下院では1954年以来、民主党が多数党であり続けた。したがって議会での多数奪回をめざす共和党支持の保守派にとって、議員の任期制限は格好の政治スローガンでもあった。
 連邦議会議員の任期制限は合衆国憲法の改正をすればできる。しかし民主党多数の議会で改正の提案可決は事実上不可能である(1994年の中間選挙でようやく両院多数を獲得した共和党は、任期制限を定める憲法改正を議会で提案したが、3分の2の賛成が得られず結局うまくいかなかった)。任期制限の運動家たちはそこで州憲法の改正をめざす。各州選出連邦上院議員と下院議員の最長任期を定める憲法改正が、1990年から1994年にかけて24州でなされた。
 そのうちの1つアーカンソー州憲法は、1992年の州民投票で、同州選出連邦上院議員の任期を最長2期12年、下院議員の任期を最長3期6年に制限した。これに対し、同州憲法改正は連邦憲法が定める議員の資格要件を変更するものであり違憲無効だとして、州民代表が訴訟を提起、これを最高裁が取り上げる。原告には事件名になった同州選出のソーントン下院議員が、被告には当時のクリントン知事が含まれていた。同じく事件名に含まれる任期制限協会は、訴訟提起後に当事者として加わったものである。
 最高裁は、連邦議会議員の任期を州憲法によって制限するのは、違憲無効であるとの判決を5対4で下す。法廷意見を著したのは、スティーブンス判事である。アーカンソー州憲法が独自に連邦議員の資格を定めるのは、連邦憲法第1条が定める上院議員と下院議員の資格要件を勝手に変更するもので許されない。憲法制定者は、連邦議員の資格要件を合衆国憲法に書きこんだ。この要件は合衆国憲法が規定するものであり、憲法の改正によってしか変更できない。任期制限の主張が制憲会議でなされたにもかかわらず、連邦憲法はそれを採用しなかったという経緯もある。したがって、州憲法によって任期制限を課すことはできない。判事はこう説明した。
 これに対し、反対意見を著したトマス判事は、合衆国憲法のもとで連邦政府は委任された権限のみを行使するものであり、修正第10条が定めるとおり、憲法によって連邦に委任されていない権限はすべての州もしくは市民が保持し続けている。同憲法は確かに連邦議員の資格要件を定めているが、任期制限については定めていないのだから、自分たちが連邦議会に送りこむ議員の任期制限を州憲法によって課す権限は、当然市民が依然保持する主権のなかに含まれており、それを行使して制定したアーカンソー州憲法の任期制限条項は合憲である。こう主張した。
 スティーブンス判事は法廷意見の中で、トマス判事の主張に次のように反論している。市民の主権の一部委任によって連邦政府が成立したのは事実だが、連邦議会は合衆国憲法によって創設された新しい国政機関であり、その構成員の資格要件を変更する権限も連邦議会発足によって新たに生じたものである。したがって任期制限を課す権限は、修正第10条によって保持された市民がもともと有する権限のなかに含まれていない。したがって市民は連邦議員の任期制限を州憲法改正によって行う連邦憲法上の根拠を、そもそももたない。
 スティーブンス判事とトマス判事のあいだの議論は、連邦議会議員の資格要件制定権限に関わる憲法制定者の意図に関するものであり、それぞれの憲法観がよく現れている。トマス判事が州と市民の保持する権限をより大きく、したがって連邦政府の権限を限定的に捉えるのに対し、スティーブンス判事はその逆に連邦政府の権限をより大きく見る。どちらも緻密な分析と議論にもとづいており、どちらが正しいかにわかには判断できないが、少なくとも最高裁は5対4でスティーブンス説を採用し、この結果連邦議員の任期を制限する24州の憲法修正条項はすべて違憲無効となった。小さな政府をめざす保守派にとっては、少々手痛い敗北であった。

憲法修正第27条

 ちなみに連邦議会に対する一般国民の不信感がきっかけとなって、上記判決が下される前の1992年には、憲法修正第27条の批准が完了し発効している。この修正条項はそもそも1789年の最初の連邦議会でマディソンが提案した12の修正案の1つである。そのうち10修正案が各州で批准され、翌1790年にいわゆる権利章典として合衆国憲法の一部となる。しかし残り2つは修正発効の条件である4分の3の州での批准が当時得られず、憲法に組みこまれなかった。その後1873年にオハイオ州が、1973年にワイオミング州が批准したものの、200年近くほぼ忘れ去られていた。
 ところが1982年になって21歳のテキサス大学のワトソンという学部生が、「連邦議会議員の給与額を変更する法律は、あらかじめ下院選挙が行われないかぎり発効しない」という内容を有するマディソンの未発効修正案の1つに改めて注目し、これを新たに批准し発効させる可能性を論じるペーパーを提出した。議員は自らの給与を引き上げる法律を制定したくても、そのあとに選挙が待っていることを知っていれば、自己本位の立法を慎むだろう。それが狙いである。
 担当教員は200年前の未成立修正条項を生き返らせるなど現実的でないと一笑に付し、このペーパーにC評価を与えたが、ワトソン君はあきらめない。本修正案を未だ批准していない各州議会の議員にせっせと手紙を書いて批准を働きかける。翌年メーン州議会が彼の呼びかけに応じて初めて批准を行った。さらに80年代を通じて議会のお手盛りに批判が高まり、1991年新たな上院議員給与引き上げ法案が提出され、議会小切手スキャンダルが明るみに出ると、ワトソン君のよびかけに賛同し批准する州が一挙に増える。そして運動を開始してから10年後の1992年5月7日、ミシガン州議会が38番目に批准し、批准州の数が50州の4分の3に達したのである。
 200年近く放っておかれた憲法の修正案を改めて批准できるのか、効力があるのかについては、当時憲法学者のあいだで議論があった。しかし合衆国の文書保存官が5月18日正式に憲法の第27修正として認定し官報に掲載。同20日に連邦上院と下院がそれぞれの決議によって有効性を確認して、修正第27条は発効した。その後この修正が国政の場、あるいは司法の場で問題になったことはないが、1980年代から90年代はじめの議会批判の波は、古い憲法修正案を生き返らせるという副産物まで生んだのである。
 

州立士官学校への女性の入学

 保守派と進歩派の考え方がぶつかる2つ目の最高裁判決は、女性差別に関する合衆国対ヴァージニア事件の判決である。私がシャーロッツビルを去る少し前の1996年6月末に下され、全米の注目を浴びた。
 本事件の本当の主役は、ヴァージニア・ミリタリー・インスティチュート(VMI)という1839年に創立されたヴァージニア州立士官学校である。同州の山間の美しい小さな町、レキシントンに所在する。学生全員を、在学中連邦予備士官訓練課程に組みこみ、軍事教練をほどこし、「市民兵士」の養成をめざす。特にラット(ねずみ)と呼ばれる新入生をまったくプライバシーのない環境に置き、上級生から肉体的精神的にとことんしごくのが伝統である。南北戦争中この学校の生徒は連隊を組み南軍の兵士として教室から直接出陣、ニューマーケットの戦いで奮戦した。開戦までVMIの教官をつとめ南軍に加わって戦ったストーンウォール・ジャクソンは、南軍屈指の有能かつ勇猛な将軍として知られた。卒業生には戦後マーシャル・プランを実行した国務長官として知られるマーシャル陸軍元帥がいる。
 VMIは創立以来ずっと男子のみの学校として通してきたが、1990年代になって同校への入学をしても許されないことを不服として、ある女性がクリントン政権の司法省に救済を求めた。司法省はこの申し立てにもとづきVMIとヴァージニア州を相手に訴訟を起こす。これに対し州は、別の私立女子大に女性のためのリーダーシッププログラムを別途設けることによってVMIを男子校として維持しようとしたが、合衆国はこれでは不十分だと判断して上告、最高裁が取り上げた。
 最高裁は7対1の票決で、州立の公立大学であるVMIが女性の入学を認めないのは憲法修正第14条の平等保護条項に違反するとの判決を下した。法廷意見を著したギンズバーグ判事は、「きわめて説得的な正当化の理由」がないかぎり、女性を男性と別扱いするのは憲法上許されない。VMIに女性の入学を認めれば、同校の伝統であるまったくプライバシーを考慮しない前記のしごき教育が不可能になるとヴァージニア州は主張するが、これには十分な説得力がない。女性がしごきに耐えられないというのは古くさいステレオタイプの女性観であり、そうした教育方法を承知のうえで入学を希望する女性がいる限り、入学の機会をまったく与えないのは不当である。また別の学校に設けた女性のためのリーダーシッププログラムは、その内容といい施設といい、長い伝統と名声を誇るVMIの代替にはなりえず、VMIを男子校のままで置くことを正当化しない。かつて南部で黒人学生のために別途設けた教育内容も設備も著しく劣るロースクールが違憲とされたように、許されない。こう判示した。
 これに対し、同意意見を著したレンクイスト首席判事は、VMIが女性を入学させないのは違憲だが、それは十分な教育内容と設備を備える代替プログラムを用意しなかったからで、男女別学そのものが許されないわけではないと、ギンズバーグ判事とは異なる自らの考えを明らかにした。ただ1人反対意見を著したスカリア判事は、伝統というものは人々が長い時間をかけて少しずつ変えていくものである。実際、VMI創立当時と現在とでは女性観が異なるのは当然である。しかし男子校として150年続いたVMIの伝統は歴史に深く根づいたものであり、州民の総意ではなく、選挙で選ばれたわけでもない連邦最高裁判事が強制的に変更し州に押しつけるのは間違っている、州民が民主的プロセスによって認めてきたVMIのよき伝統は守られるべきだと反論した。ちなみにトマス判事は、当時息子がVMIの学生であったため、この事件の審理に加わっていない。
 本判決が出たあと、VMIはどう対処するか注目された。判決にしたがって女性の入学を認めるか、それとも男子校でいても問題が起きない私立学校に移行して伝統を守るか。同校は後者の可能性を真剣に模索したが、そうすると州ばかりか国防総省からの軍事教育補助も得られなくなり、存続が難しくなるという結論に達し、1996年9月ついに女子の入学を認める結論に達する。現在では少数ながら女性学生がVMIに入学し、必要最小限の教育内容と設備の変更(たとえば浴室や寮の分離)を加えて伝統の教育を続けているようである。本事件判決が下されたあと、シャーロッツビルから車を運転して訪れた、あの美しい学校を思い出す。

クリントン大統領再選と、新たな憲法上の危機

 1994年の中間選挙では民主党が議会上院と下院の両方で野党に転落したため、クリントン政権はむずかしい政権の舵取りを強いられた。みずからの政策を推し進めようとしても、議会多数を占める共和党との合意に達しないかぎり法律制定ができない。特に前年「アメリカとの契約」を打ち出したギングリッチ新議長が統率する下院共和党は手強かった。小さな政府をめざす議会共和党は、1995年多数党となった最初の年に、福祉予算などを大幅にけずった1996年度予算案を可決、これをクリントン大統領が認めずに拒否権を発動する。大統領は暫定予算案も拒否したため、運営資金がなくなった連邦政府の一部が閉鎖される事態に至った。
 けれども、逆境に置かれたときのクリントン大統領はしぶとい政治家である。党内左派をときには切り捨てながら、共和党の政策でも妥協できるものは認める作戦に出た。そして政権は中道でありときには妥協に応じる柔軟性を有している、共和党の一部政策は国民の利益に反する極端なものであるとの世論を作り上げるのに成功する。そもそも連邦政府の一部閉鎖は、国民のあいだで共和党の頑なな態度によるものとして不評であった。1996年予算法の危機をなんとか乗り越えると、議会共和党との交渉をたくみに行い、情報通信法、項目別拒否権法(その後最高裁が違憲判決を出したので、現在は存在せず)、福祉改革法などが次々に制定される。議会多数を獲得し単なる野党ではなくなって国政運営の責任を負った議会共和党は、次第に軟化を余儀なくされる。しかし政権との妥協は共和党内の頑固な保守派には評判が悪く、議会共和党の勢いは次第に失われはじめた。(1994年以降の議会共和党とクリントン政権の対立と協調については、待鳥聡史『<代表>と<統治>のアメリカ政治』[講談社 2009]に詳しい。)
 他方クリントン大統領自身の支持率は決して下がらず、1996年の選挙では共和党のロバート・ドール候補を抑え大差で再選を果たす。議会での共和党多数はこの選挙でも変わらなかったけれども、一時の勢いはなかった。クリントン大統領はあと4年間合衆国大統領として国政を担当することになる。おそらくは歴史に名を残そうと意識しながら、第2期の就任式に臨んだ大統領は、まもなく新たな危機に直面する。ホワイトハウスのインターンとのセックス疑惑浮上と、その結果行われた弾劾裁判である。それは司法を舞台にした激しい党派間の戦いでもあった。







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