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憲法で読むアメリカ史

第17回 大統領と無口な女性判事

戦後世代大統領の誕生

 1993年1月20日、レンクイスト最高裁首席判事の司式のもと、前アーカンソー州知事ウィリアム・クリントンが連邦議会議事堂前で第42代アメリカ合衆国大統領に就任した。就任時46歳は史上3位の若さ。レーガン、ブッシュ父と2期共和党政権が続いたあと、カーター以来実に12年ぶりで民主党の大統領が誕生した。
 クリントンは共和党、民主党を問わず、それまで数代の大統領といろいろな意味で肌合いの異なる人物であった。初めての戦後生まれであり、第2次大戦の記憶がない。ベトナム戦争反対の運動が吹き荒れ、ヒッピーをはじめ極端な左派自由主義が跋扈した1960年世代に属する。保守派の勢いが増す80年代から90年代のアメリカで大統領戦に出馬し勝利を収めるために、それまでの民主党主流よりずっと中道の姿勢を取ったけれども、その価値観や行動パターンは既成の社会秩序や規範に挑戦的であった。女性や黒人と対等に接し、同性愛その他の性愛に寛容、アメリカの伝統的歴史観に懐疑的、かつ宗教色が薄いといった、この世代の特徴を多分に有している。
 しかし同時に、カーター、レーガンなど革新保守を問わず鮮明な信条をいだく指導者と比べ、クリントン大統領の政治信条はよくわからないところが多い。もともと特定のイデオロギーはなく、そのときどきで情勢を見ながら立場を決めるのだと評する人さえいる。よく言えば問題ごとに柔軟な思考ができる人であり、悪く言えばオポチュニストである。
 さらにクリントンは、道徳的、人格的にかなり疑問符のつく政治家であった。女性関係に関する噂が絶えなかったし、イギリス留学中マリファナをやったことを認めている(口に入れただけで吸っていないと弁明)。徴兵をうまく逃れたとも批判された(ちなみにブッシュ息子大統領も同じ批判を受けた)。知事時代には汚職の疑いがあった。大統領選挙のさなかジェニファー・フラワーズという女優との長年の不倫関係が取りざたされたとき、夫妻でテレビのインタビュー番組に出演し全面否定したが、1998年になって彼女と性的関係にあったと認める。第2期目にはいわゆるホワイトハウスでのセックス・スキャンダルが発覚し、弾劾裁判にまで発展する。クリントンはどこか影のある、複雑な性格の人物である。
 そうした多くの問題を抱えながら、クリントンは弁舌さわやかで、天才的な政治的センスを有していた。母親の連れ子(実の父は母親が妊娠中に交通事故で死去)としてアルコール依存症で暴力をふるう義父のもとで育ち、ジョージタウン大学から栄えあるローズ奨学生(全米で最も優秀な学生から選ばれる)としてイギリスへ留学、イェール大学ロースクールを卒業して最年少32歳でアーカンソー州知事になったこの頭脳明晰な政治家に、多くのアメリカ人が魅了された。そしてついに大統領に選出される。就任後多くの失敗を重ねたにもかかわらず、終わってみれば任期中アメリカの経済は好調で、財政赤字を着々と減らし、任期最後の3年間続けて黒字を達成。現在生存中の元大統領のなかで最も高い支持率を享受している。同時に道徳や倫理を重んじる保守派のアメリカ人からは、夫よりさらに頭脳明晰で戦闘的な妻ヒラリーとともに毛嫌いされ続けた。大統領としての評価がこれほど極端に分かれる人も珍しい。
 話をもとに戻せば、クリントン第1期政権の出だしは決して円滑でなかった。女性の登用に熱心だった新大統領は最初ヒラリーを司法長官に指名しようとしたが、法律で禁止されていることを知り断念。実際に指名したベアド弁護士は、不法移民を子守や運転手に雇いながら社会保障税を払っていないことが発覚し、これも断念。結局フロリダ州検察官出身のジャネット・リノが3月に任命されるまで、混乱が続く。また軍での同性愛を認めるという公約を就任早々実行に移そうとして、猛反発を受ける。さらにホワイトハウスの旅行オフィス職員を解雇して友人を後任に選んだと言われる、いわゆるトラベルゲート事件が5月に発覚する。こうした一連の事件に巻きこまれ忙殺されたホワイトハウスのロイヤー、ビンセント・フォスターは精神を病み、7月に自殺した。
 このような現象は、民主党が長く政権から離れていたためワシントンでの政治に不慣れだったことに、ひとつの原因がある。特にフォスターはじめ、クリントンがアーカンソーから連れてきたスタッフはワシントンで相当苦労したようだ。またベトナム反戦世代に属する政権中枢の人々は、軍人とのつきあいがないなど外交防衛問題に不慣れであった。なにやら数年前の民主党鳩山政権成立当初の大混乱を思い出す。軍の同性愛問題もその現れである。さらにアメリカにとって冷戦後最大の脅威は日本の経済力だと見る政権の方針により、第1期には日米関係も非常にぎくしゃくした。新最高裁判事の指名と任命の過程も初期の混乱の一つである。

クリントン、最高裁判事を選ぶ

 新大統領就任からわずか2ヶ月後、3月19日の朝9時、バイロン・ホワイト最高裁判事がホワイトハウスのロイヤーの1人ロン・クレインを自分のオフィスへ招いた。クレインは80年代にホワイト判事の助手をつとめた人物である。最高裁判事とその助手の関係は非常に緊密で、つとめたあとも親交が続く。今日はなんだろうとクレインが腰を下ろすと、判事は机越しに封書を差し出し、「この手紙を君の上司に持って行ってくれたまえ」と頼んだ。手紙のコピーを渡されて読むと、大統領へ辞任を通知する内容である。「自分は十分この仕事をした。自分は民主党員だから、民主党の大統領に後任を選んでほしい」。判事はそう述べた。いつ辞任を発表するのですかと尋ねると、今日の午前10時だとの答え。その時すでに9時15分。驚いた彼はあわてて部屋を飛び出し、タクシーでホワイトハウスへ駆け戻った。
 ケネディー大統領に任命されたホワイト判事は、比較的保守的な司法哲学の持ち主である。ケネディー政権時代、ロバート・ケネディー司法長官のもと司法省のロイヤーとして公民権法の成立に尽力し、最高裁判事としても人種差別には厳しく当たった。しかし、憲法解釈一般においては厳格で抑制的な立場をとり、ロー対ウェード事件では女性が妊娠中絶を行う権利は憲法のどこにも見当たらないとして、レンクイスト判事と共に反対意見を著す。たった1人残った民主党大統領任命の判事ではあるが、ホワイト判事の辞任はもっと進歩的な判事の任命を可能とする。1967年にジョンソン大統領がマーシャル判事を任命して以来、民主党の大統領が最高裁判事を選ぶのは初めてであった。クリントン大統領にとっては最高裁の方向性を変える機会が、就任早々訪れた。
 ところが新しい判事指名は、なかなかうまくいかない。大統領は新判事の候補者を検討する翌日の会議で、大物政治家の起用を指示した。憲法の専門家である学者や判事は一般民衆にわかりにくい難しい論争を繰り広げるが、実際の世の中を知らない。最高裁判事には正しい判決を下すだけでなく、国民の心を動かし他の判事を説得できる、カリフォルニア知事から転じたウォレン元首席判事のような人物を任命したい。大統領はそう述べた。この結果筆頭候補に挙げられたのが、法律家出身のニューヨーク州知事、マリオ・クオモである。
 クオモ知事は民主党の有力な政治家で、イタリアからの移民の息子としてニューヨークで生まれた。その思想は明確なリベラルであり、法廷弁護士として活躍したあと、1983年から1994年まで11年間ニューヨーク州知事をつとめる。1984年民主党全国大会でのスピーチで、全国的注目を浴び、何度か大統領候補としてとりざたされたが、結局一度も出馬しなかった。特に1992年の大統領選挙では、ニューハンプシャーの予備選挙に出るべきかどうか、空港に飛行機を待たせたまま悩み、結局取りやめる。
 クリントンは大統領選最大のライバルであったこのクオモを、最高裁判事に指名しようと考えた。もしかしたら2期目の挑戦を恐れたのかもしれない。ところがここでまたクオモの逡巡ぐせが出る。大統領が電話をかけると居留守を使い、はっきりした返事をしなかった。それでも何回かやりとりがあり、4月9日にようやく息子のアンドリューがステファノポリス大統領補佐官(現在ABC放送ニュースキャスター)に判事就任の意向を伝える。しかしそのわずか1時間あとに、本人から「ニューヨーク知事の仕事を続けたい」とファックスが届く。指名の手続きはすべて振り出しにもどった。
 政治家をあきらめきれないクリントン大統領は、連邦地区裁判事の経歴をもつジョージ・ミッチェル上院院内総務に打診して断られる。次に前サウスカロライナ州知事でクリントン政権の教育長官をつとめていたリチャード・ライリーとアリゾナ州知事をつとめたあと内務長官として政権に加わったブルース・バビットを検討するがうまくいかない。それではと下級審の判事に対象を拡げたものの、これぞという人がみつからない。その間、情報がホワイトハウスからもれるなど、手際も悪かった。エドワード・ケネディー上院議員が推したボストンの第4巡回区連邦控訴裁判所主席判事スティーブン・ブライヤーは大統領との面接まで進んだが、納税の記録が混乱していて指名までいかない。あれやこれやで1ヶ月以上が経ち、任命されたばかりのリノ司法長官が勧めるギンズバーグ判事が最後に本命として登場した。

ギンズバーグ判事の最高裁判事任命

 ルース・ベーダー・ギンズバーグは、1933年にニューヨーク、ブルックリンでユダヤ人の家庭に生まれた。地元の公立高校からコーネル大学に進む。ここで知り合い結婚した夫のマーティン・ギンズバーグと共に、1956年ハーバード・ロースクールへ進学した。当時500人の学生中女性は9人しかいなかったという。夫がニューヨークで就職したのを機にコロンビア大学のロースクールへ編入し、トップの成績で卒業する。
 実はロースクール在学中娘が生まれたあと、夫が癌を発病する。妻は赤ん坊の面倒を見、夫の看病をしながら法律の勉強を続け、授業に出られない夫のために講義のノートを取り、論文をタイプし、しかも学内法律雑誌の編集委員(優等生のみが選ばれる)をつとめた。彼女は幼いときに姉を癌で亡くし、大学へ進む前に母を癌で亡くしてもいた。いままた夫が癌にかかり、最高裁判事になってから自らも癌で闘病を余儀なくされる。それにもかかわらずこれだけの仕事をした。
 余談だが夫君は税法の権威で、私がジョージタウン・ロースクールに留学したとき同校の教授であった。この人が教える法人税法の授業を履修したのだが、難しくて大変苦労した。いかにも簡単そうに説明をし、学生がわからないと「どうして?」といった顔をする。一種理科系の頭脳をもつ人であった。
 一方妻のほうは、1963年以来ラトガース大学とコロンビア大学ロースクールの教授として教え、1973年にはACLU(アメリカ自由人権協会)の法律顧問に就任、一貫して女性の権利向上に訴訟を通じて取り組む。女性差別に関するいくつかの有名な憲法訴訟で原告の代理人をつとめ、憲法修正第14条を根拠に女性差別を違憲とする画期的な判決を最高裁からかちとっている。
 1980年には、カーター大統領によってコロンビア特別区巡回区連邦控訴裁判所の判事に任命された。この裁判所では1986年までスカリア判事が同僚であり、2人は進歩派と保守派という立場の違いがありながら仲がよい。最高裁で再び同僚になってからも、ケネディーセンターでのワシントンオペラの公演に端役で一緒に登場した。
 リノ司法長官がギンズバーグ控訴裁判事を推薦したとき、クリントン大統領がそれほど乗り気であったようには思われない。彼女は当初大統領が任命したいと考えた雄弁な政治家タイプの法律家とは、およそ正反対の人物であった。小柄で無口で、内省的である。冷たい印象を与える。法律の仕事以外したことがない。しかしいつまでも最高裁判事が決まらないのは、ホワイトハウスにとって決して好ましいことではない。すでに年齢が60歳であるのは不利だったが、最高裁判事として必要な能力を備え、女性であり進歩派である候補は、もう彼女しかいない。
 民主党政権にとってやや気がかりであったのは、ギンズバーグが控訴裁判事時代、刑事事件などで比較的保守的な判決を下していることであった。しかし女性の権利に関してはきわめて進歩的であり、ロー判決も妊娠中絶の禁止が女性を差別するものだとして支持していた。逆にやや保守的な傾向は、共和党議員が支持しやすいことを意味した。また彼女の納税記録は完璧で何の問題もなかった。ブライヤー判事と対照的であり、夫が優秀な税法のロイヤーであるだけのことはある。クリントン大統領は、ともかくギンズバーグを面接することに決めた。
 ところが大統領が翌日の朝ギンズバーグに会うという6月12日の夜、情勢がもう一度激変する。クオモ知事の息子アンドリューからステファノポリスに電話があり、大統領はすでに最高裁判事を決めたのかと尋ねたのである。
 このとき知事は、大統領がブライヤー判事を選ぶものと予想していた。もしそうならば、次に欠員が生まれたとき2人続けて白人の男性を最高裁判事に指名することはまずない。最高裁判事になるなら今しかない。クオモはこう考え直したらしい。ステファノポリスは、もし大統領が電話して就任を要請したら知事は必ずイエスというのか、もう後には引けないぞと念を押す。父親に再度確認したアンドリューの答えは、イエスだった。
 大統領はこの知らせを聞いて喜んだ。やはり有名な政治家を任命したい。クオモにもう一度チャンスを与えよう。第一候補はクオモだ。しかし同時にギンズバーグとの会見は予定通り翌朝行った。この小柄で無口な女性判事は、若いときに亡くした母親のこと、同じ癌であやうく命を落としそうになった夫のこと、女性の権利向上に尽くしたことを静かに語り、大統領に強い印象を残した。
 そしてその日の夕方、最高裁判事を決定する最終会議のさなか、クオモからステファノポリスへ電話がかかる。やはり辞められない。知事にとどまる、最高裁判事の指名は受けない。またもや彼は気を変え、クリントンの期待を裏切った。翌6月14日、大統領はギンズバーグ判事の指名を全米に発表する。ホワイト判事の辞表提出から、ほぼ3カ月が経っていた。
 ギンズバーグ判事の任命に関する上院司法委員会の公聴会は、おおむね順調に進んだ。そもそも彼女は、自分の司法観、憲法観について多くを語ろうとしなかった。公聴会ではあまり口を開かない人物のほうが有利なようである。結局、議会上院は96対3の投票でギンズバーグ判事の最高裁判事任命に同意する。そして1983年8月10日、彼女は宣誓を行って最高裁判事に就任した。こうして史上2人目の女性判事が登場した。





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