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憲法で読むアメリカ史

第11回 レーガン政権の残したもの:大統領と憲法

レーガン政権の思い出

 ロナルド・レーガンは1989年1月20日、第40代合衆国大統領としての任務をすべて終えた。その日の朝、大統領夫妻は政権を引き継ぐジョージ・ヒューバート・ウォーカー・ブッシュ副大統領夫妻とコーヒーを共にしたあと、4人そろって議会へ向かう。ブッシュ副大統領が議事堂前の広場でレンクイスト首席判事の司式のもとに宣誓を行い第41代大統領に就任するのを見届けてから、レーガン夫妻はヘリコプターで議事堂を去った。郊外のアンドリュース空軍基地で大統領専用機に乗り換え、退任後の自宅を構えたロサンゼルスへ向けて離陸。レーガンの時代はこうして終わった。離任時の支持率は史上もっとも高いものであった。
 レーガン政権の8年間、私個人にもさまざまな転機があった。1981年1月20日の就任時、私はソニーの東京本社で働いていた。保守派新大統領への関心は日本でも高かった。その年3月私はアメリカへ講演旅行に出かけ、訪問先のウィスコンシン州ミルウォーキーでレーガン大統領が撃たれたことを知る。その日の行事はすべて中止になった。
 同年8月下旬、私は会社から派遣されてジョージタウン大学ロースクールへ留学する。それから3年にわたり、生まれてはじめて体系的に法律の勉強をした。同大学は首都ワシントンにある。にもかかわらず政権にかかわる当時の事件や話題について、ほとんど記憶がない。おそらくは法律の勉強についていくのがやっとで、アメリカの内政や外交に関心を払う暇などなかったのだろう。
 政治や外交だけではない。ロースクールで勉強しながら、司法に関する当時のできごとも知らなかった。もちろん憲法の授業を履修したから、担当の教授が最高裁の最近の判決についてしばしば言及したのは覚えている。「レンクイスト判事の意見は他の判事とあまりに違うので、予測困難だ」が口癖であった。各判事の憲法思想について、周囲の学生も議論をしていた。しかし憲法の勉強を開始したばかりの私には、まったく実感がなかった。
 最高裁について多少とも理解しはじめたのは、世話になったソニーを退社して1987年10月末ワシントンの法律事務所に移ってからである。今回は法律の学習ではなく、法律の仕事をするのが目的である。業務上の必要もあり、私はレーガン政権や当時の最高裁をめぐるニュースに毎日触れた。連邦議会上院がボーク判事の最高裁判事任命を最終的に否決した直後である。引っ越しに忙しく、私はこの重大な事件の詳細を追っていなかったけれど、着任早々、最高裁判事任命の可否が街中の話題になるワシントン独特の雰囲気に浸ることになった。
 それに私が加入したのは、レーガン大統領と縁の深いカリフォルニアに本拠を置く法律事務所である。レーガン政権第1期の司法長官をつとめたウィリアム・フレンチスミスは、この事務所の有力パートナーであった。彼の仲間が数人、政権発足を機にロサンゼルスからワシントンに移ってオフィスを構え、政権が直面する憲法・行政法などの問題に関わった。そのなかには、のちにブッシュ(息子)政権の訟務長官をつとめたセオドア・オルソン、レーガン・ホワイトハウスの筆頭ロイヤーをつとめたピーター・ワリソンがいたし、レンクイスト判事やスカリア判事の助手をつとめた優秀な若手ロイヤーが何人かいた。彼らと一緒に仕事をし付きあううちに、私は最高裁の動きに大きな関心を抱くようになった。
 1989年1月、レーガン大統領が退任するときには、大統領夫妻がヘリコプターに乗り込んで離陸し、ワシントンの上空を旋回して別れを惜しむ光景を自宅のテレビで見ていた。その後ブッシュ政権最初の2年半ワシントンに住み、この街の政治や司法の動きに親しみを感じるようになる。

レーガン政権の光と影

 レーガン政権の8年間は、今日のアメリカでおおむね高く評価されている。共和党支持者だけでなく民主党の関係者も、一種のなつかしさをこめてレーガン時代を語る。1970年代にはレーガンを極右とみなして毛嫌いする人が多かったのに、大変な変わりようである。一部の政治家が不寛容なほど保守色を深め、穏健派の存在が薄くなっている現在の共和党と比べて、レーガンはずっとましだった。民主党支持者でさえそう思うようだ。実際レーガンに投票した者のなかには、民主党の左傾化に幻滅した保守的な民主党員が多かった。現在の共和党は、そうした中間層を取り込めないでいる。
 小さな政府を唱えながら、結局膨大な財政・貿易赤字を残した内政はともかく、レーガン政権が外交の分野で成し遂げた大きな功績については、異論がないだろう。何よりも冷戦を終結させた大統領として記憶されている。政権第1期こそ、その強気な軍拡姿勢ゆえにソ連との緊張を高めたものの、第2期のはじめ新たにソ連最高指導者となったゴルバチェフ書記長と一種の信頼関係を結び、交渉が可能となる。レーガンは安易な妥協をせず、むしろアフガニスタン戦争、チェルノブイリ原発事故、経済の低迷などで急激に弱体化するソ連を背負うゴルバチェフが譲歩を重ねた。そして1987年12月両首脳がワシントンで中距離核ミサイル全廃条約に署名して、歴史的な米ソ間の核軍縮が成立する。
 ワシントンを訪れたゴルビーは、街中の人気者になった。市内を移動中、私が勤めていた事務所のすぐ近くで車から降り、周囲の市民に会釈し握手する。秘書さんたちはゴルバチェフをすぐ近くで見たと興奮しきりであった。その日は私も事務所にいたのだが、残念ながらすぐ近くの地下のレストランで食事をしており、この人気者に間近で接する機会を失った。
 最高指導者の笑顔にかかわらず、ソ連は深刻な危機に直面していた。翌1988年2月には、手を焼いたアフガニスタンからの撤退開始に合意。レーガン夫妻がホワイトハウスを去ってわずか10ヶ月後の1989年11月にはベルリンの壁崩壊が始まり、東欧各国の一党独裁がなだれを打って崩れはじめる。さらにその2年後の1991年12月にはソ連そのものが解体した。冷戦の終結とともに、人々はレーガンの外交政策が正しかったのだと、改めて思った。

イラン・コントラ事件

 しかしレーガン政権の外交政策が、すべて順調に進んだわけではない。皮肉なことに、レーガン政権最大の危機もまた、その外交防衛政策と密接に関係していた。イラン・コントラ事件である。
 この事件は、レーガン政権の国家安全保障会議(NSC)を率いるマクファーレン大統領補佐官、後任のポインデクスター補佐官、そしてNSC幹部のノース元海兵隊中佐らによって引き起こされた。彼らは1986年から数度にわたってイランに武器を売却し、その利益をニカラグアのサンダニスタ左派政権打倒を目指す武力集団コントラに提供したのである。
 イランとアメリカはカーター政権時代テヘランのアメリカ大使館が占拠され、アメリカ人多数が人質になって以来、敵対関係にあった。その間にイラン・イラク戦争が勃発、アメリカは当初サダム・フセインの率いるイラクを応援したものの、イランとの関係改善も模索していた。そこへイスラエル政府が同国を通じてのイランへの武器供与をマクファーレン補佐官に持ちかける。イスラエルは直接の脅威であるイラクの勢いをそぐため、イランが欲しがっていたアメリカ製武器の売却を望んだ。イラン国内の有力穏健派とのパイプがある、イランの影響下にあるシーア派テロ組織ヒズボラが当時レバノンで捕らえていたアメリカ人7人の人質解放にもつながると説得した。この提案にしたがってイラクへの武器売却が行われ、同時にノースとポインデクスターは当時政権が秘密裏に支持していたコントラに売却利益を送ったのである。
 この作戦は極秘のうちに行われた。政権内部でもその全貌を知るものは3人以外ほとんどいなかったらしい。詳細については今でも不明な点が多い。ところが1986年10月、武器を積んだCIAの輸送機がニカラグアのジャングルに墜落し、11月になってレバノンのシリア系雑誌がイランへの武器売却とコントラへの売却利益供与を報じ、政権をめぐる一大スキャンダルが発生する。
 この時、ホワイトハウス・カンスル、すなわちレーガン大統領の筆頭ロイヤーとして本事件への対応にあたったのは、前述のピーター・ワリソンである。私の属する法律事務所に戻ってから、日本関係の仕事でしばしば一緒に働いた。ワリソンは後に、ホワイトハウスで自分が仕えたレーガン大統領についての本を書く。題名はずばり「ロナルド・レーガン」。そのなかでイラン・コントラ事件に揺れるホワイトハウスの動きを克明に記している。
 同書によれば事件発覚当初、いったい誰が、何時、どのような決定を行い、何をしたのかさえ、はっきりしなかったという。首謀者の3人はホワイトハウス内での調査にほとんど協力しなかった。それどころか極秘書類を大量に焼却する。ポインデクスターとノースはまもなく解任された。その後、武器売却の合法性、売却代金提供の合法性、当事者それぞれの権限と責任の所在など、むずかしい法律問題を一つ一つ限られた時間のなかで検討する。同時に事態の進展と共に大統領の発言、マスコミへの発表、議会への通知内容を決定せねばならない。その記述は臨場感に満ちていて、ホワイトハウスにおける危機管理の様子がよくわかる。
 事件の複雑な経緯、その後の処理はともかく、問題の核心はレーガン大統領がこの極秘作戦にどこまで関与していたのかにつきる。もし大統領が最初から作戦の全体を知っていて遂行を承認していたのであれば、大統領はその責任を免れない。政治的には指導力低下をもたらし、最悪の場合ウォーターゲート事件の際のニクソン大統領のように辞任せねばならないかもしれない。弾劾訴追の可能性もあった。実際、事件発覚後、大統領の支持率は急落する。政権は大きな危機に直面した。
 結局1987年を通じて、タワー上院議員(共和党)を委員長とする超党派の特別調査委員会(タワー委員会)、議会諜報委員会、両院合同調査委員会、本事件調査のために新たに任命されたウォルシュ独立検察官のチームなどが、関係者の尋問、公聴会、関係書類の精査などを行って事件の解明をはかる。政権の中枢にいた数人の高官が独立検察官によって起訴され、マクファーレン、ポインデクスター、ノースの3人は有罪となる(後に調査の過程で与えられた証言免責を根拠に無罪)。ただしイランへの武器売却を当初認めた以外、大統領の直接の関与はなかったとの判断がなされ、弾劾には至らなかった。
 調査の結果を待たず、1987年3月、大統領は事態を正確に把握していなかったことをふくめ、この事件のすべての責任が自分にあると、国民に向けて謝罪した。レーガンは危機を乗り越え、本事件は終了する。

大統領と議会の関係と憲法

 再選された大統領は、近年その第2期でつまずく傾向があるようだ。ニクソン大統領は圧倒的な大差で再選を果たしたものの、ウォーターゲート事件スキャンダルのため弾劾裁判の手続きがはじまり、最終的に辞任を余儀なくされた。クリントン大統領は第2期にセクハラ嫌疑による訴訟に直面し、その過程でホワイトハウス・インターンとの不倫疑惑が明らかになる。独立検察官の尋問において虚偽の発言をしたとの容疑で弾劾裁判にかけられ、かろうじて無罪を獲得している。ブッシュ大統領はイラク情勢が改善しないまま第2期を迎え、開戦の際イラクの大量破壊兵器保有に関し意図的に間違った情報を流したのではないかとの嫌疑をかけられた。調査委員会が設立され、支持率を大幅に落としたまま退任する。リビー副大統領補佐官の訴追もあった。各政権とも第2期になると、政権運営に多少のゆるみや油断が出るのかもしれない。
 ウォーターゲート事件、イラン・コントラ事件、クリントン不倫セクハラ弾劾事件、イラク大量破壊兵器虚偽疑惑は、それぞれ異なった性格のものである。しかし、それぞれ大統領と議会の権限ぶつかり合いが背後にある。
 ニクソン政権は、フランクリン・ルーズベルト大統領以来強大になる一方だった、いわゆる「インペリアル・プレジデンシー(帝政型大統領制)」が頂点に達した政権だと言われている。議会の権限に比して、大統領の権限が圧倒的に強かった。しかしその権力濫用が目に余りウォーターゲート事件が明るみに出て、最終的に退任を余儀なくされる。これにより内政外政両面において、大統領と議会の力関係が大きく変化した。伝統的に大統領の権限が強い外交防衛分野でさえ、1974年、戦争権限法が両院合同決議の形で成立し、議会が大統領の武力行使に一定の制限を加えようとする。フォード政権とカーター政権では、大統領の権限が比較的に弱かった。
 レーガン大統領はその傾向に歯止めをかけ権限回復にある程度成功したのだが、その任期を通じて民主党が下院で多数を維持し抵抗したので、すべてが思い通りになったわけではない。レーガン大統領がめざましい成果をあげた外交防衛面でも、民主党は大統領のやり方に口出しを試みた。たとえば外交防衛予算承認の際にライダーと呼ばれる付帯条項を通す形で大統領の政策を制限する。コントラへの援助を禁止したいわゆるボーランド修正条項も、それにあたる。議会のこうした立法行為を議会が余計な口出しをするものとみなすべきか、あるいは憲法の起草者が意図した三権分立の抑制と均衡の機能が作用した健全なものと見るか、意見はわかれる。ただこのような背景ゆえに、イラン・コントラ事件もまた憲法問題を包含していたのである。

モリソン対オルソン事件判決

 大統領と議会の権限争いに関して最高裁が判断を示したのが、1988年、イラン・コントラ事件の調査がまだ続く1988年のモリソン対オルソン事件判決である。民主党が下院を支配する議会は、ウォーターゲート事件のときに活躍した特別検察官の制度を1983年になって政府倫理法改正の形で強化し、独立検察官の制度を発足させる。この法律は、大統領、閣僚、大統領補佐官など、行政府の枢要な地位にいる者の執った行動が違法である疑いがある場合、議会そして司法長官の要請によってコロンビア特別区連邦控訴裁判所の判事3人からなる部局が特別検察官を任命し、与えられた権限をもとに独立の調査を行わせるものである。調査の結果、違法性について十分な証拠がある場合、独立検察官は当該政府高官を訴追する権限を有した。
 オルソン事件では、レーガン政権の環境保護政策をめぐり、民主党が支配する下院2つの委員会が環境保護局に対し特定の書類提出を求め、司法省がこれを拒否する。その責任者であったオルソン司法次官補が議会の公聴会で虚偽の証言を行った疑いがあるとして、下院司法委員会は独立検察官による調査を司法長官に要請、モリソン独立検察官が任命された。訴追を受けたオルソンは、本来大統領の専権事項である法執行の義務を、議会の要請により裁判所が任命する独立検察官に全面的にゆだねるこの制度は、三権分立の原則に反するゆえに違憲であると主張して、訴訟を提起する。
 最高裁は7対1でオルソンの主張を退け、独立検察官制度を合憲と判示した。法廷意見を著したレンクイスト首席判事は独立検察官が憲法第1条に定める「下級官僚」にあたり、議会はその任命方法を法律によって定める権利がある。また司法長官は独立検察官の解任権限を維持する。それに独立検察官の任命方法が多少大統領の専権事項に関わるとしても、それによって大統領の法執行権限が大きな影響を受けるわけではないと説明した。
 この判決に強く反発し詳細な反対意見を提出したのは、レンクイスト首席判事誕生の際同時に任命されたスカリア判事である。判事は法執行に関して憲法が大統領に専権を与えたのは、もし検察が間違いを犯した場合、そのすべての責任が大統領一人にあることを明確にするためである。国民は大統領が大きな間違いを犯したと判断した場合、次の選挙によってその責任を問うことができる。独立検察官制度は責任の所在をあいまいにする。たとえこの制度が大統領の法執行権限にわずかな影響しかないとしても、憲法の原則そのものが崩れる。「法は大統領これを執行する」と憲法が明確に規定しているのであるから。そう主張した。

イラン・コントラ事件と最高裁人事

 特別検察官制度と三権分立原則の関係については、イラン・コントラ事件を乗り越えたレーガン大統領が退任したあとも、論争が続く。その間、この事件発覚後1986年11月の中間選挙で、共和党は議会上院の多数を1980年以来初めて失う。レーガン政権は民主党が上下両院を完全に支配する議会に直面した。翌1987年、ボーク判事が最高裁判事に就任できなかったのには、間接的にイラン・コントラ事件の影響もあったのである。




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