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憲法で読むアメリカ史

第10回 ボーク判事就任否決とケネディー判事就任

ボーク判事就任否決

 1987年10月6日、連邦議会上院司法委員会は、ロバート・ボークの最高裁判事任命に同意を与えるよう上院本会議へ勧告する動議につき、採決を行った。レーガン大統領が7月1日にボーク判事を指名してからすでに3カ月、9月15日に司法委員会の公聴会が始まってから1カ月近く経っている。承認手続きにこれだけの時間を費やしたのは、ボーク判事任命阻止派の作戦の一つであった。
 この年の夏を通じ、黒人団体、女性の権利擁護派、組合、その他人権団体などが、ボーク判事任命反対運動を活発に展開した。各上院議員のもとへ電話や手紙、署名など、反対派から大量のメッセージが届く。ボークは反動思想の持主だと俳優グレゴリー・ペックが語りかけるテレビコマーシャルが全米で流され、一般大衆に大きな影響を与えた。もちろん賛成派もこれに対抗したけれど、反対派の勢いは圧倒的であった。公聴会の期間を通じて反対の声はさらに高まり、その力を結集する。穏健派の議員たちも、この勢いを無視するわけにいかない。特に南部出身の議員たちは、再選に欠かせない黒人票を失うのを恐れ、ボークを公然と支持しにくくなりつつあった。
 この経緯を克明に綴ったボーク判事自身の著書、『アメリカへの誘惑、司法の政治的屈服』によれば、公聴会で彼がいくら自分の司法観を正確に披歴し、推薦人と証人が任命に賛成の証言をしても、バイデン、ケネディーをはじめとする進歩派議員はまったく聴く耳を持たなかった。どこが「公聴会」だと、判事はため息をついている。
 全米のメディアは、公聴会の進展とボーク判事の動向を逐一報道した。指名を受けて以来、自宅前にはマスコミが毎日張り付いて動かない。特に公聴会の後期には、判事が車で自宅を離れた瞬間、オートバイが2台、車1台が後からついてきて、判事の行方を追った。目的地では常に多数の記者が待ち構え、判事の去就について突撃インタビューを試みた。時にボーク判事とその家族は報道陣の裏をかき、記者たちが待ち受けるホワイトハウスの門の前をわざと通過して、うっぷんを晴らしたという。
 反対派はこうしたメディアによる過熱報道を歓迎し、それを世論誘導に用いた。しかしボークは裁判官が一般メディアに登場するのを嫌い、マスコミに向かって発言しようとしなかった。メディアは自分たちの質問に一切答えない人物を決して好まない。ノーコメントで通すボークを冷徹な人物としてとらえ、好意的な報道は少なかった。そもそもニューヨークタイムズ、ワシントンポストなど影響力のある大手新聞、テレビの3大ネットワークは、進歩的傾向が強く、ボーク任命に否定的報道が多かった。ホワイトハウスのスタッフは、一時期ボーク判事夫妻がテレビの人気インタビュー番組に出演するよう、強く進言する。判事の素顔を国民に直接見せれば、イメージが変わり支持が増えるのではと考えた。しかしボークは申し出を断った。
 司法委員会は予想通り9対5で、ボークの最高裁判事任命同意勧告動議を否決した。司法委員会委員14人のうち、バイデン委員長(現副大統領)以下8人の民主党上院議員は全員が反対票を投じる。サーモンド上院議員以下6人の共和党上院議員は、スペクター議員のみが反対票、残りの5人は賛成票を投じた。司法委員会はこの結果を上院本会議に報告した。司法委員会の採決結果に強制力はないが、本会議でボーク判事の就任が可決される見込みはまったくなかった。
 この段階で誰もが、ボーク判事は最高裁判事への指名を自発的に辞退するものと確信する。数カ月にわたって自分の人事が国民的論争の的にされ、メディアに追い回され、議会その他の場でいわれのない個人的攻撃を受けるのは、普通の人間には到底耐えられない。ボーク判事はもちろんだが、その妻と子供たちも疲れ切っていた。家族へのあまりに重い負担を考え、判事自身、指名辞退を一旦決意した。
 回想録によれば、10月8日、ボーク判事が控訴裁判所の執務室で辞退声明を書きはじめて間もなく、公聴会での採決後に指名辞退を勧めたシンプソン共和党議員から電話がかかる。このことをもう一度考え直した、辞退はするな。上院本会議で議論をつくして後世に記録を残そう。そう提案したのである。ちょうどその時、判事の妻と2人の息子が執務室に入ってきて、判事が電話を切るや同じく辞退するなと進言する。判事は最後まで戦うことを、その場で決意した。
 同日、ボーク判事と家族はホワイトハウスを訪れ、レーガン大統領に決定を伝えた。大統領は判事とまったく同じ考えだと述べたが、ホワイトハウスのスタッフはがっかりした表情を見せたという。準備が整うとボーク判事はホワイトハウスの記者会見室に入り、大勢の記者を前に辞退しないことを告げる。家族と共に指名辞退を発表するものとばかり思っていたマスコミの人々は、不意をつかれた。その後質問には答えず、ホワイトハウスが用意した車で判事は控訴裁判所に戻る。いつものように2台のオートバイと1台の自動車が追いかけてきたが、振り返るとオートバイの運転手が1人、右手を上げ、親指を突き出すしぐさをした。「やったぜ」というサインである。
 数日後、上院本会議での討論が始まった。各上院議員はすでにそれぞれ賛否の態度を決めていたけれども、賛成派、反対派の議員が次々に立ち上がり演説をした。10月23日、憲法第2条の規定にもとづき、連邦議会上院はボーク判事の最高裁判事任命に同意するかどうかにつき、採決を行う。結果は予想通り、58対42でボーク判事任命承認動議は否決された。2人の民主党議員が賛成票を投じ、6人の共和党議員が反対票を投じる。ボーク判事が最高裁判事に就任する道は、これで最終的に閉ざされた。
 判事は「すべてが終わってうれしい」とコメントを残し、コロンビア特別区連邦控訴裁判所の判事の仕事を再開した。しかし翌1988年2月、大統領に辞表を提出し、裁判所を去る。

ギンズバーグ判事指名、ケネディー判事任命

 司法の保守化をめざすレーガン大統領にとって切り札だったボーク判事が上院の承認を受けられなかったのは、政権にとって大きな痛手であった。大統領は、ボーク判事に劣らず反対をされるのが確実な保守派の人物を再び選ぶと宣言し、前年コロンビア特別区連邦控訴裁判事に自らが任命したばかりのダグラス・ギンズバーグを指名した。
 ギンズバーグ判事は1946年生まれ、シカゴ・ロースクールを1973年に卒業し、マーシャル最高裁判事の助手をつとめた。1973年から1983年までハーバード・ロースクール教授、1983年から1986年まではレーガン政権の司法省で独禁法を担当した。経歴からして、法曹としての資質がきわめて高い人物である。最高裁きっての進歩派判事に仕えたにもかかわらず保守的司法観の持ち主であったが、指名当時まだ41歳で、ボーク判事のように著名ではなかった。
 ボーク判事を否決したばかりの上院司法委員会が、公聴会開催に向け動きはじめて間もなく、予想外の事態が発生する。司法関係の報道で有名なPBS(全米公共放送システム)のニーナ・トッテンバーグ記者が、ギンズバーグ判事は学生時代とロースクールの教授時代、マリファナを吸っていたというスクープをものにしたのである。この世代のアメリカ人に学生時代マリファナ吸引の経験があるのは、特段珍しいことではない。しかし教授になっても麻薬をやっていたという事実は、公職につこうとする者にとって致命的であった。ギンズバーグ判事は、即座に指名を辞退する。本人の思い切りがよかったのか、上院の審議が長引くのを恐れた政権の差し金か、いずれにせよこの判事候補はあっという間に国民の視界から消えた。ボーク判事とは異なり、判事は2011年に引退するまで連邦控訴裁判所に留まり、2001年から2008年までは首席判事をつとめている。
 指名した人物が2人続けて最高裁判事に就任できないのは、政権にとって政治的悪夢である。かつてニクソン大統領はフォータス判事の後任として2人の保守派判事を指名しながら上院の承認を得られず、結局ブラックマン判事を任命した。そのときに似ている。3回目の失敗は許されない。もうこれ以上、極端に保守的な判事を指名することはできなかった。ハワード・ベイカー大統領首席補佐官(のちの駐日大使)を中心に慎重な検討がなされた結果、レーガン大統領は1987年11月30日、アンソニー・ケネディー連邦控訴裁判事を最高裁判事に指名した。
 ケネディー判事は1936年、カリフォルニア州の首都サクラメントで生まれた。父はカリフォルニア州議会に影響力をもつ弁護士であった。ボストンのケネディー家とは関係がない。スタンフォード大学からハーバード・ロースクールへ進み、1961年優等で卒業する。サンフランシスコの法律事務所で働いたあと、サクラメントで父の事務所を継ぎ、1965年から最高裁判事に就任するまで同じカリフォルニア州中部ストックトンにあるパシフィック大学ロースクールで憲法を教えた。その後現在に至るまで、毎年、オーストリアのザルツブルグで同大学が開く夏季国際法講座で教鞭を執っている。
 州税制の問題に関し助言を受けた経験のあるレーガン知事の推薦で、1975年、フォード大統領はこのロイヤーを第9巡回区連邦控訴裁判所判事に指名、議会上院は全員一致でこの人事を承認した。第9巡回区はカリフォルニア、アラスカ、ハワイを含む西部諸州と太平洋島嶼領土をふくむ広い管轄区である。ケネディー判事はこの仕事を12年にわたって務める。1987年11月、上院がボーク判事、ギンズバーグ判事を相次いで否決したとき、レーガン政権のロイヤーたちは、カリフォルニア時代以来よく知っているこの温厚な判事を思い出した。大統領は1987年11月30日、ケネディー判事を最高裁判事に指名する。政権はギンズバーグ判事のマリファナ事件に懲りていたのでケネディー判事の身体検査を徹底的に行ったが、問題となるような事実は何もなかった。
 ケネディー判事に関する上院司法委員会の公聴会は1987年12月14日に始まる。ボーク判事の人事をめぐるとげとげしい公聴会が、10月末に終わったばかり。民主党の議員たちもこれ以上大統領との対立を深める気はなかった。それにケネディー判事は共和党員であり保守的な思想の持ち主であったけれども、ボーク判事のように原意主義、厳格解釈主義といった特定の司法観を持っていないと思われていた。実際に公聴会で、ケネディー判事は自らの司法観を明確に述べるのを避ける。1988年1月27日、司法委員会はケネディー判事の承認を全員一致で本会議に勧告し、2月11日、上院本会議もまた同判事の最高裁判事任命に97対ゼロの投票で同意する。パウエル判事の引退表明から7カ月後、ようやくその後任が任命された。

ボーク否決とその後の最高裁

 ロバート・ボークの最高裁判事任命をめぐって、なぜかくも激しい論争がおこり、最終的に連邦議会上院は同判事の就任に同意を与えなかったのか。それには2つの大きな理由があるように思われる。
 第1に、ボーク判事に代表される保守的な憲法観と、バイデン上院司法委員長に代表される進歩派の憲法観のあいだの違いが、あまりにも大きかった。これまでに述べたとおり、保守派、進歩派それぞれの中にも、憲法とはなにか、司法は憲法をどう解釈すべきかについて多くの意見があり、複雑な理論がある。アメリカのロースクールで憲法を教える学者たちは、年がら年中この問題を論じ合い、論文を書いて暮らしているようなものである。この難しい問題を単純化して説明するのは危険であるけれど、合衆国憲法を議会が提議し所定の手続きを経て国民が批准した憲法典そのものに限るボーク判事の立場に対し、憲法をより根源的な基本法、あるいは自然法の一部に過ぎないと捉え、したがって制定法としての合衆国憲法がすべてではないと考えるのがバイデン上院議員らの考えかたである。
 公聴会でボーク判事が、最高裁判事は憲法の解釈にあたり、あくまで条文に徹するべきであり、憲法に書かれていない権利を作り出すべきではないと述べるたびに、バイデン委員長はあきれたという風に両手を挙げ、「私は自分が存在する限り、権利を有しているんだ」と反論したという。そうしたより根本的な権利が憲法の外にも存在すること、そしてそれを憲法典自体が当然としていることの根拠として、バイデン議員は憲法修正第9条をしばしば挙げた。同条は「本憲法にいくつか特定の権利を列挙したことを、人々が保持する他の権利を否定する、もしくは低めるものと解釈してはならない」と規定する。この条項は最初の10修正の一つである。起案者である憲法の父マディソンさえ、基本的人権が憲法典に挙げられたものに限らないと認めているではないか。
 実際ボーク自身、基本的人権が憲法典に記載されたものに限られると考えているわけではない。この世には神の法や自然法のような根本原則があるのかもしれない。しかしその内容を明らかにするのは裁判官の仕事ではない。前回述べたとおり、裁判官が選挙を通じて国民に選ばれていない以上、憲法判決の正当性はあくまで条文を忠実に解釈することにしか求められない。条文に書かれていない基本的権利の存在を判事が主観によって宣言すれば、司法の正統性を失うことになる。修正第9条も判事にその役目を与えていない。
 ボークは自著のなかで、今世紀初頭の有名な連邦控訴判事であるラーニド・ハンドが、同じく偉大な最高裁判事であるオリバー・ウェンデル・ホームズ2世と交わした短いやりとりに言及している。昼食のあとホームズ判事が馬車で立ち去ろうとしたとき、急に興奮したハンド判事が追いかけて、「判事、正義を実現してください、正義を」と叫んだ。ホームズはこれを聞くと馬車を止めさせ、ハンドに向かって「それは私の仕事ではない。私の仕事は法を適用することだから」と述べたという。
 しかし第2に、ボークをめぐる激しい論争は、この戦いが政治そのものだったからこそ起こったといえよう。ボークの回想によれば、指名後初めてエドワード・ケネディー上院議員のもとへ挨拶のため訪れた時、議員はときどきボーク判事の方に顔を向け、「まったく個人的なことではないんだ」と、重苦しい口調で数度繰り返したという。ボーク判事の人格がどうであれ、またその憲法理論がどうであれ、進歩派の政治家は最高裁が判例を通じてそれまでに認めてきた妊娠中絶の権利、少数民族の権利、その他の憲法上の新しい権利を死守せねばならない。それらを覆すと予想されるボーク判事の就任は、絶対に阻止する。そうした司法の政治化こそ、アメリカ合衆国における法による支配の正統性を揺るがすものであるとボークは嘆いたけれども、進歩派にしてみれば背に腹は代えられなかった。それに彼らの行動を正当化するのもまた、最高裁判事の任命には上院議員の3分の2の助言と同意を必要とするという合衆国憲法第2条の規定であったのである。
 ボーク判事でなくケネディー判事がパウエル判事の後任として就任したことは、以後の最高裁判決の流れに重大な影響を与える。次回以降、その詳細を述べよう。




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