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憲法で読むアメリカ史

第9回 ポーク判事の指名と政治化する最高裁

パウエル判事の引退

 レーガン大統領は最高裁判事の任命に関して、運が強かった。バーガー首席判事の引退にともなうレンクイスト首席判事とスカリア新判事の任命から1年も経たないうちに、もう一人判事が引退を表明する。ルイス・パウエル判事である。大統領は3人目の新判事を任命する機会を得た。
 バーガー首席判事の引退を、高齢の判事たちは複雑な思いで見守っていた。17年ぶりの首席判事交代と、オコナー判事以来の新判事就任。レンクイスト新首席判事はこれまでの首席判事より17歳若く、スカリア新判事は最長老のブレナン判事より30歳若かった。20世紀初頭に生まれた4人の判事は、そろそろ引退の時期が来たと感じただろう。
 ただし、いつ辞めるかは人によって判断が異なる。健康状態、判事の地位への執着、家族の意向など、いろいろな要因がからまる。過去にはダグラス判事のように、倒れて動けなくなるまでその地位にとどまった人がいたし、スチュワート判事のように、まだ元気なうちにあっさり退いた人もいた。定年がないから、どんなに歳をとっても、本人が決意しない限り辞めなくていい。
 もうひとつ重要なのは、その時だれが大統領の地位にあるかである。現役判事の引退は、現職大統領にとって新判事任命のチャンス到来を意味する。自分と同じ党に属し価値観を共有する大統領ならば、同じような思想の人物を後任に選ぶだろうから辞めやすい。しかし反対党の大統領だと異なる憲法観・司法観をもつ人物を選ぶ可能性が高く、その任期中に身を引くのは危険だ。
 レーガン大統領は1987年初頭、まだ約2年任期を残していた。ただし憲法の規定により、3期目はない。次の選挙で民主党が政権を取り返す可能性は十分ある。この保守的な大統領と思想信条を違えるブレナン、マーシャル、ブラックマン各判事にとって、今辞めれば保守派判事任命の機会をみすみす与えてしまう。ここで引退するわけにはいかない。そう考えたようだ。実際ブレナン判事とマーシャル判事はレーガン大統領の任期が終わるまで、ブラックマン判事にいたっては次のブッシュ大統領が退いて民主党のクリントン政権が誕生するまで、最高裁に踏みとどまる。
 他方パウエル判事は、民主党の大統領が誕生して自分の後任に進歩的判事を任命するのを、好ましく思わなかった。同判事は穏健な保守派であったけれど、共和党員としての信条は固い。そうであれば最高裁に大きな変化が起きぬよう、レーガン大統領の任期中に引退したほうがいいかもしれない。公の場ではこうした政治的考慮を一切明らかにしなかったものの、パウエル判事がこう考えたと信じる人は多い。
 実はパウエル判事は最高裁での仕事をたいへん愛していて、引退を望んでいなかった。しかしだれよりも職業的倫理観の強いこの人は、仕事を完全にこなせる自信がなくなったら、辞めるべきだと考えた。それに1985年、前立腺癌の手術をし、相当体力を消耗した経験がある。3ヵ月近く、最高裁判事の職責が果たせなかった。その後完全に回復したとはいえ、80歳の誕生日を間近に控え自分のスタミナが徐々に落ちつつあるのを感じていた。家族や信頼する助手と徹底的な議論を交わしたうえで、引退を決意する。
 一般的に判事の引退表明は、開廷期が終わる6月末が望ましい。次の開廷期がはじまる10月はじめまでに後任の判事が決まれば、最高裁の日常業務への影響がもっとも少ない。ただしパウエル判事の場合、1988年6月まで待って引退を表明すると、新判事任命が同年秋の大統領選挙で大きな争点にされる恐れがある。そうであれば1年早い、1987年6月の引退表明がもっとも望ましい。何事に関しても徹底的に考え抜く判事はこう結論づけると、まずレンクイスト首席判事に引退の意思を伝え、6月26日金曜日朝の会議で、同僚判事へ正式に引退の意思を告げた。
 判事たちはこの発表にショックを受ける。オコナー判事は泣いたという。謹厳実直ではあるが、だれに対しても丁寧でやさしく真心のこもった南部出身のこの紳士を、同僚判事だけではなく、歴代の助手や裁判所の書記、ジャーナリスト、学者など、政治的な立場を越えて誰もが愛し、引退を心から惜しんだ。この日、マーシャル判事のもとで働く年老いた事務員が「バーガー判事引退の日はクリスマスのようだったが、今日はまるでお葬式みたいだ」とつぶやいたという。最高裁で一つの時代が終わった。

ボーク判事の指名

 レーガン大統領がパウエル判事の後任に指名したのは、コロンビア特別区控訴裁判所判事のロバート・ボークである。同判事の指名には瞬時に大きな反響があった。そしてこの人事をめぐって、最高裁の歴史でもっとも激しい論争の一つが起こる。
 最高裁判事候補として、ボークは申し分のない経歴と実績を有していた。シカゴ大学のロースクールを卒業、法律事務所で一時働いたあと、イェール大学ロースクールで1962年から82年まで教える。その当時の教え子には、ビル・クリントン、ヒラリー・クリントン、クリントン政権の労働長官ロバート・ライシュ、カリフォルニア州知事ジェリー・ブラウンなどがいる。この間、1973年から77年まではニクソン政権とフォード政権で司法省の訟務長官をつとめた。レーガン大統領が控訴裁判事に指名、上院の承認を受けて1982年からこの職にあった。憲法と独禁法を専門とする学者、連邦政府の司法官僚、さらに連邦控訴裁判事として、その能力はずば抜けており、高い評価を受けていた。人物としても清廉であり、最高裁判事への指名にあたり問題とされるような事跡はない。保守派の最高裁判事候補として、これ以上の人物はいなかった。
 しかし同時にボーク判事は、進歩派の政治家、官僚、学者から危険視さえされる存在でもあり、この人の指名は最初から一波乱あることが予測されていた。司法の保守化をめざすミース司法長官以下のレーガン政権のロイヤーたちは、それを覚悟していただろう。ただそれが連日マスコミで報道され全国民的な関心を引く一大政治事件になるとまでは、おそらく考えていなかった。

原意主義と進歩的判例の否定

 進歩派がボーク判事の最高裁判事就任を恐れ阻止しようとした最大の理由は、憲法解釈と司法の役割にかかわる「原意主義」(オリジナリズム)あるいは「厳格解釈主義」と呼ばれる、この人の理論にある。ごく単純化すれば、判事は起草者の意図に忠実に従って憲法の解釈を行わねばならず、自らの主観をいささかも含めてはならない――そういう立場である。
 最高裁判所は、19世紀初頭の有名な「マーベリー対マディソン」事件判決を通じて、いわゆる司法審査権を確立した。議会が制定した法律や大統領が執った行政措置が憲法の定めるところと矛盾すれば、憲法の規定を優先させ、当該の法律や行政措置を違憲無効にできる。アメリカの司法が強い影響力を誇るのは、司法審査権を有し、行使してきたからである。
 ただ、この強い権利の行使には、ひとつ大きな問題がある。投票で選ばれた国民の代表が多数決によって制定した法律を、選挙の洗礼を受けていない9人の最高裁判事が無効にするのを、いかに正当化するのか。イェール・ロースクールでボークの同僚教授であったすぐれた憲法学者、アレキサンダー・ビッケルは、これを「反多数性の問題」と呼んだ。アメリカの憲法学者は、ビッケル以来この問題を考え続けていると言ってよい。ことはアメリカという国家とその統治制度の根幹にかかわる。
 ボーク判事の原意主義は、司法審査を正当化する理論の一つである。判事は投票によって選ばれていない以上、国民を代表しておらず、その意思を代弁する立場にない。司法審査を正当化する民意は、憲法起草者の意思しかない。だから法律や行政措置の合憲性を判断するには、憲法の文言を忠実に解釈し、起草者の意図を可能な限り読み取ること以外にない。通常の裁判で法律解釈をするのと同じように、憲法は厳密に解釈すべきである。そうして得られた解釈は、時に国民のあいだで不人気であるかもしれない。しかしもしそうであれば、国民は決められた手続きにしたがって憲法そのものを改正すればいい。司法はあくまでも憲法を解釈する機関であって、憲法のあるべき姿を示すのがその役割ではない。
 ボーク判事の原意主義理論は、首尾一貫したものであって、私は基本的に正しいと思う。ただ問題は、この理論に立つと、60年代から90年代にかけて最高裁が下した多くの進歩的判決が間違っているとの結論が導きだされる点にある。もっともわかりやすい例が、1973年のロー対ウェード事件判決で示された妊娠中絶を行う女性の基本的権利である。ボーク判事に言わせれば、妊娠中絶の権利を女性が有するとは憲法のどこにも書いていない。またその根拠とされる修正第14条の制定者は、同条がそのような権利を包含するとは意図していない。したがって妊娠中絶を禁止するテキサス法が違憲であるという最高裁の憲法解釈には、正当性がない。

ボーク判事任命を阻止せよ

 ボーク判事のこの主張は、きわめてはっきりしていた。引退したパウエル判事は保守派の判事であったが、ロー判決では多数意見に加わった一人である。そのパウエルがボークに代わった最高裁では、ロー判決に批判的な判事が多数を占めることになり、同判決を覆す可能性が高い。何が何でもそれは阻止せねばならない。進歩派はこう考えた。
 最高裁の判事は法律の専門家であるから、判決を下すにあたって結論だけでなく、その論理性を重視する。しかし最高裁の判事任命の過程は純然たる政治であって、結果がすべてだ。進歩派はボーク判事任命を阻止するためにあらゆる手段を用いた。
 口火を切ったのは、エドワード・ケネディー上院議員である。パウエル判事引退表明から6日経った1987年7月1日、レーガン大統領がボーク判事を後任に指名すると、民主党進歩派のリーダーであるケネディー議員はそのわずか45分後、上院本会議で、「ボーク最高裁判事が任命されたアメリカでは、女性が非合法な妊娠中絶を余儀なくされ、黒人は再びレストランで白人から隔離され、警察官は真夜中に令状なしで個人の家庭を強制捜索し、学校では進化論を教えることが許されず、作家や芸術家は政府の検閲を強いられるだろう」と演説した。明らかに扇動的で、客観的な内容ではない。
 ボーク判事は進歩的な判決を憲法上の根拠がないといって批判したものの、進歩派の掲げる価値観を真っ向から否定したわけではない。新しい憲法的価値観を創造するのは裁判所の仕事ではないと述べただけだ。けれども妊娠中絶の権利を認める判決や黒人の権利を拡大する判決を否定すれば、一般人はボーク自身がそうした権利そのものを否定する反動派だとみなしやすい。ケネディーはその傾向を利用して、反対派を効果的に動員した。
 こうした極めて政治的な進歩派の攻撃を、レーガン政権の保守派ロイヤーたちは過小評価したふしがある。ボーク判事の類ない学者としての業績をもってすれば、結局は上院による承諾が得られるだろう。実際、大統領が指名した最高裁判事が議会で投票のうえ承諾を得られなかった例は、それまでほとんどなかった。しかもボーク判事の場合、いくつか不利な条件が重なった。
 第一に、ボーク判事の立場があまりにも明確であった。優秀な憲法学者であったから、過去に執筆した論文が多数あり、それが反対派による攻撃の材料になった。しかも上院の公聴会で彼は自分の立場を雄弁に述べた。その主張が詳細であればあるほど、反対派の攻撃を受けやすい。これに懲りて、これ以後上院公聴会に臨む最高裁判事は、妊娠中絶の権利をどう考えるかなど憲法観を聞かれると、将来判決を下す際に手をしばるとして、一切答えなくなった。正直なポークはそれをしなかった。
 第二に、1986年秋の中間選挙で、共和党は上院での議席を8つ減らし、1980年以来保ってきた多数党の地位を民主党に譲り渡していた。きわめて党派性の高いボーク判事承認の過程で、民主党の議席が共和党より10多いのは、不利であった。
 実はボーク判事が最高裁候補として検討されたのは、このときが初めてではない。1986年にバーガー首席判事が引退したとき、ボークはスカリアと共に後任候補であった。しかしイタリア系で最初の最高裁判事候補であること、ボークより約10歳若くボークほど知られていないこと、レーガン大統領がその個性を気にいったことなどから、結局スカリアが選ばれる。
 もしこのときボーク判事が選ばれていたら、どうなっただろう。オコナー判事、スカリア判事よりは強い反発を受けたかもしれないが、レンクイスト首席判事とセットであれば共和党が多数を占める上院の承諾を何とか得られただろう。民主党が上院を支配し、政治的な利点となる特定の人種的宗教的背景がなく、単独で審査を受けねばならない87年には、それがずっと難しかった。
 第三に、ボーク判事は反発を受けやすい個性をもっていた。極めて優秀な人物にときどき見られるように、近寄りがたい雰囲気があった。きまじめかつ戦闘的な調子で質問者に反論する。筋が通っているためにかえって反発を呼ぶ。ボークに負けず保守的な憲法観を抱きながら、イタリア系でジョークを飛ばす明るい性格のスカリア判事とは対照的である。
 そして最後に、ウォーターゲート事件のさなか、ニクソン政権の司法官僚として果たした役割を、多くの人が覚えていた。事件の真相を暴こうとするコックス特別検察官を解任するよう、ニクソン大統領に命令されたエリオット司法長官は、あえて辞任して実行を拒否する。司法省ナンバー2のラックルハウス司法次官も同じく辞任して命令を拒否した。そこで司法省ナンバー3のボークが命令を実行したのである。
 ボーク自身、この仕事はやりたくなかったと言われる。憲法上大統領が自分の部下である検察官の解任権を有することには疑問の余地がない。誰かがやらねばならない。司法省の幹部がいつまでも責任を逃れるわけにはいかない。そこで彼は、解任を実行することに同意したものの、自分自身も解任のあとすぐ辞任することを望んだ。公聴会でのボーク自身の証言によれば、誰かが司法省の機能を継続させねばならないとエリオット長官に説得され、しかたなく司法省に残ったのだという。ことの真偽はともかく、この一連の出来事ゆえに、ボークには悪名高いニクソンに加担した冷酷で危険な元司法官僚であるとのレッテルが貼られた。反対派はそれをフルに利用したのである。
 のちにボーク判事はこの公聴会の経過を、『アメリカへの誘惑、司法の政治的屈服』という題の本で克明に記した。彼にとって、自分自身の最高裁判事就任承認の是非を審議する上院における一連の過程は、まさに司法の原則が政治の渦に飲み込まれ、妥協を迫られるという悪夢に思えたことだろう。
 こうして9月15日に始まった上院司法委員会の公聴会は、1ヵ月近く続いた。公聴会はテレビ中継され、そこでのやり取りは毎回テレビや新聞によって報じられた。10月6日に同委員会は採決を行う。投票の行方に、全米の注目が集まった。




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