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憲法で読むアメリカ史

第8回 レンクイスト・コートのはじまり

レーガン政権第1期から第2期へ

 レーガン政権第1期、政治から距離をおく最高裁にそれほど大きな変化がなかったものの、そのほかの部門にとっては実に波乱万丈の4年間であった。村田晃嗣氏の近著『レーガン』(中公新書)は、新大統領がどのような事件にまきこまれ、どのような政策を遂行したかを、わかりやすく記述している。
 そもそも政権発足直後の1981年3月、大統領はワシントン市内のヒルトン・ホテルを出たところで、ジョン・ヒンクリーという男に狙撃される。リムジンにあたって跳ね返った銃弾が大統領の脇から体内に入って心臓近くに達し、一時は生命が危ぶまれた。しかし急きょ運び込まれたジョージ・ワシントン大学病院での4時間に及ぶ手術が成功し、奇跡的な回復を果たす。手術直前、医師団に向かって「君たちがみんな共和党員だといいんだがね」とジョークを飛ばし、医師の一人が「大統領、ご安心ください、今日は全員共和党員です」と答えたのは、有名である。もしレーガン大統領が亡くなっていたら、ケネディー大統領暗殺から約20年、アメリカは再び暗いムードで覆われただろう。その後の内政や外交の方向が変わっていたかもしれない。しかしレーガンはユーモアを失うことなくこの危機を切り抜け、人気が急上昇した。
 ちなみにレーガン大統領が狙撃されたとき、私はジャパン・キャラバンという全米を講演してまわる民間広報使節の一員としてウィスコンシン州ミルウォーキー市にいた。訪問先の新聞社についたとたん、ニュースを知らされ、その午後すべての約束がキャンセルになる。ホテルに戻りずっとテレビニュースを見て心配していた。
 元気になった大統領は、精力的に内外の課題と取り組む。まず内政面では大幅な支出削減と減税を行った。この間航空管制官の組合がストに突入すると、職場復帰命令に応じない組合員を全員解雇した。しかし景気の後退、金利の上昇、失業率の悪化、倒産の増加、インフレの亢進、財政赤字と貿易赤字の増大と、経済情勢は引き続き悪かった。日米間には深刻な貿易摩擦が存在した。1982年の中間選挙では共和党が大敗する。
 一方外交面に目をやると、1981年5月、ヴァチカンでヨハネ・パウロ2世が狙撃され重傷を負うものの、命を取りとめる。その背後にはポーランドでの自由化の動きに危機感を募らせるソ連KGBの指示があった。年末にはソ連軍の介入を恐れるヤルゼルスキ同国首相が戒厳令を布き、自由化の運動を弾圧。東西関係は緊張する。
 1981年10月にはエジプトのサダト大統領の暗殺。82年4月にはアルゼンチンによる英領フォークランド諸島占領、フォークランド戦争勃発。11月、ブレジネフソ連共産党書記長死去。83年3月、レーガン大統領がソ連の核ミサイルを撃ち落とす戦略防衛構想(SDI)を発表。8月、フィリピンのアキノ元上院議員がマニラ空港で暗殺され、フィリピン情勢が緊迫。9月、ソ連空軍戦闘機が大韓航空のジャンボ機をサハリン沖上空で撃墜。10月には韓国の全斗煥大統領一行がビルマ訪問中、北朝鮮工作員による爆破テロ に遭遇。同じ10月、レバノンに派遣された米海兵隊司令部とフランス軍宿舎がテロリストに爆破され、米軍212人、フランス軍72人が犠牲に。2日後、米軍は革命が起きたカリブ海の小国グレナダへ米人救出のため侵攻。11月にはソ連の中距離核ミサイル配備に対抗してアメリカの核ミサイルがイギリスに配備され、米ソ関係はますます緊張、核凍結運動が全世界に広がる。84年2月、アンドロポフソ連書記長死去。あとを継いだチェルネンコ書記長も、レーガン再選後の85年3月に死去し、ゴルバチェフが登場する。
 このようにレーガン政権の第1期には、アメリカ経済がなかなか好転せず、国際的な危機が続き、米ソ関係が非常に緊張した。しかしレーガン大統領は英国のサッチャー首相、フランスのミッテラン大統領、西ドイツのコール首相、そして日本の中曽根首相と共に西側の結束を固め一つひとつ対処する。レーガンのタカ派的な政策は一部で強い反発を呼び起こしたが、同時に支持も増えた。経済がようやく回復の兆しを見せるなかで、次の大統領選挙が始まる。民主党はモンデール上院議員を1984年7月の党大会で大統領候補に指名した。
 選挙戦ではレーガン大統領の年齢が争点の一つになる。この時点でレーガン大統領は72歳。2回目の両候補討論会で司会者が「年齢はハンディキャップになるか」と質問すると、大統領は「私は政治的目的のために、ライバルの若さや経験不足を利用するつもりはありません」と答え、聴衆の爆笑を引き起こす。選挙の結果はレーガン大統領の圧勝で、全米49州を制し再選を果たした。
 

新しい首席判事の誕生

 こうしてレーガン政権第2期がはじまった。大統領は変わらなかったけれど、閣僚や主要な官僚が交代し、それにともなって政権内部の雰囲気にも変化が見られた。4年間の激務に疲れを感じたのか、大統領は第1期と比べてより多くを部下に任せるようになる。司法に関していえば、比較的イデオロギー色の弱かった第1期のウィリアム・フレンチ・スミスに代わって、より保守主義の色彩が濃いエドウィン・ミースが司法長官になった。
 スミスはロサンジェルスの法律事務所ギブソン・ダン・クラッチャーのパートナーをつとめたロイヤーで、カリフォルニア時代のレーガンに法律の助言を与えていたことから、大統領就任の際ワシントンへ招かれた。これを機にギブソン・ダンのロイヤーが何人かレーガン政権入りし、司法省で働く。彼らの多くは、のちにギブソン・ダンのワシントン事務所に集結し、ブッシュ父子の共和党政権でも司法省他の枢要なポジションについて活躍した。1987年に私が同事務所で働きはじめたときにも、レーガン政権で司法次官補、のちにブッシュ(息子)の訟務長官(最高裁における連邦政府の代理人)をつとめたテッド・オルソン、レーガン大統領のホワイトハウスで筆頭ロイヤーをつとめたピーター・ワリソンなど、レーガン時代の生き残りが何人かいた。
 司法長官としてスミスのあとをついだエドウィン・ミースは、スミスと同様カリフォルニア知事時代からのレーガン側近である。スミスと同様ワシントンに移ってホワイトハウス入りする。そして第2期政権の発足とともに司法長官に昇進した。ミースはロースクールで教えた法学者でもあり、最高裁の保守化により大きな関心を持っていたようである。
 レーガン大統領の再選は、少なくともあと4年間、現役判事が辞任するたびに保守派判事を任命する機会が生ずることを意味した。そして実際に1986年6月、最高裁開廷期最後の週、ウォレン・バーガー首席判事が引退を表明し、この政権にとって2度目の最高裁判事任命のチャンスが到来した。オコナー判事任命から5年後である。
 ミース司法長官はまず後任首席判事の選定に取りかかる。候補に選ばれたのは、すでに最高裁判事をつとめるウィリアム・レンクイストである。
 レンクイスト判事については、すでに紹介した。1972年、パウエルとともにニクソン大統領に任命されたレンクイストは、最高裁判事に就任してからすでに14年。保守的な憲法解釈で知られ、ニクソン政権の司法省で働いた経歴を有していた。そのため1972年就任の際には上院の公聴会で、1950年代ジャクソン最高裁判事の助手時代に人種別学を擁護するメモを書いたことが問題になる。最高裁首席判事就任のときにも、この問題が蒸し返された。
 しかし昔がどうであろうと、レンクイストはすでに最高裁判事としての実績があった。進歩派の議員はレンクイストの昇進に強く反対したが、結局上院本会議での投票の結果、65対33で承認される。そしてレンクイストの首席判事就任は圧倒的な好感をもって、同僚判事や法曹関係者に迎えられた。
 それは第1に、レンクイスト判事がだれからも好かれ、進歩派の判事たちさえも彼の人柄を愛したからである。実際、憲法思想ではレンクイスト判事の対極にあるブレナン判事でさえ、「ビル・レンクイストは最高裁における私のベスト・フレンドだ」と言って、知人を驚かせたという。同じく進歩派のダグラス判事は、自由人であり西部出身だという共通点のせいかレンクイストと非常に気があった。
 第2に、その人柄と能力ゆえに、レンクイスト首席判事は前任のバーガー首席判事よりも最高裁の運営に巧みであると期待された。バーガーは自己顕示欲の強い権威主義的な人物であった。事件の審理にあたっては自分の意見を変えてまで多数派を取り、自分で法廷意見を執筆するのにこだわった。また判事会議をまとめるのが下手で、会議はしばしば結論がはっきりしないまま終わった。ロー対ウェード事件の審理などでたびたび見られたこの傾向は、保守派進歩派を問わず他の判事に大きな不満を抱かせる。ウォーターゲート事件の報道でスクープをものにしたワシントン・ポストのボブ・ウッドワード記者が書いた『ブレズレン』(互いに兄弟と呼び合う最高裁判事たちのこと)という本は、スチュアート判事がこうしたバーガー・コートの実態をひそかにリークしてできた本である。
 期待どおり、レンクイスト首席判事は、同僚判事の見解を尊重し公正に意見を集約するのが巧みであった。自分が少数派に回ると、だれが法廷意見を書くかは多数派の先任判事に任せて口を出さない。全員が少なくとも一つ法廷意見を書くチャンスを得ないかぎり、新しい事件の法廷意見起草を他の判事に任せなかった。判事会議でも順番に発言を求めた。議会に陳情して法律を変更し、最高裁が取り上げる年間の事件数を大幅に減らした。この結果最高裁の各判事は、一つ一つの事件により深く集中できるようになる。

スカリア判事の任命

 バーガー首席判事の引退とレンクイスト判事の内部昇格は、レーガン政権がもう一人最高裁判事を任命できることを意味した。幾人もの候補が取りざたされたけれども、ミース司法長官は2人の候補にしぼる。1人がアントニン・スカリア、もう1人がロバート・ボークである。
 2人には共通点が多かった。両人とも当時コロンビア特別区連邦控訴裁判所の判事である。両方とも共和党政権下の司法省で働き、ロースクールの教授をつとめ、すこぶる保守的な憲法観を有していた。そして両者とも高い能力をもった法律家として知られ、どちらも最高裁判事候補として申し分がなかった。違いといえば、スカリア判事のほうがボーク判事より10歳ほど若く、最高裁判事の職にとどまる期間がより長くなると予測されたこと。もうひとつはウォーターゲート事件の時期にニクソン大統領のもとで訟務長官をつとめ、大統領の命令に従ったためネガティブな印象のあるボーク判事と比べ、スカリア判事の知名度が低かったことである。過去の事績が少なければ、それだけ上院での承認を得やすい。これらの点を考慮して、結局ミース長官はスカリア判事を指名する。
 アントニン・グレゴリー・スカリアは1936年、ニュージャージー州トレントンでシシリア島からの移民の父と、同じくイタリア系2世の母のあいだに、一人っ子として生まれた。地元の公立小学校に通い、成績がよかったのでマンハッタンのイエズス会系の高校に進み最優等で卒業する。両親が相当の教育パパとママで、幼いときから勉強ばかりしていたという。大学はプリンストンを目指したが果たせず、ワシントンのジョージタウン大学に進学する。やはりイエズス会系で、私の母校でもある。スカリア判事のほかに、クリントン元大統領、フィリピンのアロヨ元大統領、ゲーツ前国防長官などが、この大学の卒業生として知られている。
 1957年最優等の成績でジョージタウンを卒業したスカリアは、ハーバード・ロースクールに進み、1960年準最優等で卒業。オハイオ州クリーブランドの法律事務所で6年間働いたあと、ヴァージニア大学ロースクール教授になった。1971年ニクソン政権入りし、2つの省庁で法律の仕事をしたあと、1974年司法次官補となった。司法長官そしてフォード大統領が直面する、複雑な憲法・法律問題を手がける。カーター政権の時代にはシカゴ大学ロースクールで再び教鞭をとるが、1982年レーガン大統領によってコロンビア特別区連邦控訴裁判所判事に任命される。その切れ味よい弁論や判決文で注目され、1986年最高裁判事に指名された。
 スカリア判事はレンクイスト判事に劣らない保守的な憲法観の持ち主であったけれども、上院司法委員会が資格審査のための公聴会を開いたとき、議員たちの反応は驚くほど柔らかかった。議員たちはレンクイスト判事の公聴会における厳しい論戦で疲れていたし、史上初のイタリア系アメリカ人の最高裁判事候補を否決するのは、政治的に好ましくなかった。質問は簡単に済み、スカリアはジョークを飛ばす余裕さえあったという。テニスの試合で最近対戦し打ち負かした民主党のメッツェンバウム上院議員が司法委員会の委員の1人だったが、「(上院の承認をもらうためには試合で勝たせるべきだという)私の判断を、私の倫理観が許さなかったのです」と発言して、満場をわかせた。傍聴席には夫人と9人の子供が陣取って、公聴会の行方を見守っていた。
 こうして9月17日、レンクイスト首席判事の就任が承認されたと同じ日、スカリア判事の就任も上院本会議で承認される。レンクイストのときは33人が反対票を投じたが、スカリアの場合は98対0で反対がなかった。その後スカリアがもっとも強硬な保守派判事として最高裁で重要な役割を果たすのを見て、民主党の議員たちは同判事の任命を簡単に許したのを後悔したようだ。

レンクイスト・コートの出発

 レンクイスト判事の首席判事への昇進、スカリア判事の新たな任命は、最高裁の将来にとっていくつか大きな意味をもっていた。
 第1に、この人事によって第2期に入ったレーガン大統領は新しい首席判事を任命し、2人目の新しい判事を最高裁に送り込むのに成功した。もしレーガン政権が1期で終わり民主党政権が誕生していたら、これはありえなかった。この結果、9人の最高裁判事のうち、7人が共和党の大統領、2人が民主党の大統領によって任命された人物となった。しかもそれまでの共和党系判事のうち3人が進歩派、2人が比較的穏健な中道派であるのに対し、レンクイストとスカリアは非常に明確な保守派である。レーガンが大統領就任前から唱えていた最高裁の保守化が、ようやく軌道に乗りはじめた。
 第2に、レーガン大統領が任命した最高裁判事は3人とも比較的若かった。このときオコナー判事が56歳、レンクイスト判事は62歳、スカリア判事は50歳。これに対し、残りの判事のうち、ブレナン判事が80歳、パウエル判事が79歳、マーシャル判事とブラックマン判事が78歳と、かなりの高齢である。明らかに最高裁で世代交代が始まっていた。これまでの男性中心、エリート中心の最高裁から、保守派であるものの自由人であるレンクイスト首席判事、女性のオコナー判事、初のイタリア系で明るく直裁なスカリア判事が活躍する新しい最高裁への変化である。しかも他の判事の年齢からして、レーガン大統領の任期中もう1人引退し、保守派の新判事が任命される可能性も十分あった。
 その後レンクイスト首席判事は、2005年に亡くなるまで20年近くこの職にあって、最高裁の結束を保ち、威厳を増した。レンクイスト・コートと呼ばれるこの時期、憲法の解釈をめぐって法廷では激しい対立が見られる。しかし残り8人の判事はだれもがこの首席判事を尊敬し、愛した。最高裁は三権の一つとして有効に機能したのである。これ以後しばらく最高裁の歴史を、レンクイスト・コートの物語として語ろう。



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