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憲法で読むアメリカ史

第7回 レーガン政権第1期の最高裁

最高裁に変化なし

 レーガン新大統領は、就任早々サンドラ・デイ・オコナー女史を合衆国最高裁判事に任命した。しかしそれによって最高裁の保守化がすぐ始まったわけではない。その理由はいくつかある。
 第1に、オコナー判事の登場は新政権発足直後であったが、レーガン大統領は次の最高裁判事を任命する機会になかなか恵まれなかった。バーガー首席判事が引退を表明し最高裁にようやく空席が生じるのは、オコナー判事就任から5年後である。したがって、レーガン政権最初の5年間は、1 人を除いて全員が前政権から変わらぬ顔ぶれであった。
 第2に、政権発足後だけでなく、その前にも最高裁判事の構成は安定していて、大きな変化がなかった。そもそもカーター前大統領はその任期中1人も任命していない。オコナー判事の前は1975年12月フォード大統領によるスティーブンス判事任命、その前が1972年1月ニクソン大統領によるパウエル判事とレンクスト判事の同時任命である。すなわち、1976年から1986年までの約10年間に1人しか交代せず、1972年から1986年までの約14年間をとっても2人代わっただけ。レーガン政権誕生を機に、最高裁が判決の方向を大きく変える必然性はなかった。
 第3に、政権が変わっても最高裁判決の方向性がただちに変化しないのは、憲法起草者たちのそもそもの意図であった。1787年のフィラデルフィア憲法制定会議で守られた原則の1つは、厳密な三権分立である。同会議の出席者たちは、イギリスから独立した13州による新しい共通政府樹立の必要性をよく認識していたが、同時に強大な中央政府が専制に走るのを恐れた。それを防ぐためには政府の権限を分割して互いに競わせ、どれか1つが突出しないようにする。ジェームズ・マディソンが『フェデラリスト』第51篇で展開した、権力の抑制と均衡の理論である。
 この考え方にもとづき、憲法は中央政府の権限を立法、執行(行政)、司法の3つにわけ、それぞれ異なった構成と権限、そして構成員の選び方と任期を定めた。そのなかでも連邦司法の独立性を特に重視する。他の2権とは異なり、司法は少数の裁判官のみで構成される。3権のうちでもっとも弱く権力濫用の危険性が少ないが、同時に自らを守る手段ももたない。にもかかわらず、判事は不偏の立場で法律の解釈を行い、議会や大統領の行きすぎた権力行使を必要に応じて抑制せねばならない。そのため憲法は、判事の任命は国民の投票ではなく大統領の指名と議会上院の助言と承認による、いったん任命された判事の任期は特に非行がないかぎり終身とするという、司法の独立を保障する仕組みを設けた。『フェデラリスト』第78篇でアレキサンダー・ハミルトンは、こう説明している。
 連邦司法、特に最高裁は、こうして時の政権から容易に影響を受けないようにできている。自分たちを任命した大統領や議員が任期を終えて姿を消しても、判事はその地位に留まる。たとえ国民が望んでも、裁判官を選挙によって引きずりおろすことはできない。司法が国家権力全体の継続性・正統性を保つこの仕組みは、憲法起草者たちの知恵の産物と言ってよいだろう。
 そんな最高裁であるから、レーガン政権が誕生し、共和党が連邦議会上院で多数を占め、オコナー判事が就任しても、大きな変化は見られなかった。

レーガン保守主義と最高裁への影響

 けれども市民として判事として、新政権が発足早々打ち出す大胆な政策に、最高裁の9人は無関心でいられなかったはずである。国論を二分するような行政府の施策や立法府の法律は、しばしばその合憲性を問われ訴訟が提起され、控訴上告を受けやがて最高裁で審理される可能性が高い。そうであれば最初から注意深く見守る必要がある。しかも国民が最高裁に対しこれまでになく注目していた。史上初の女性最高裁判事誕生は、関心のなかった層にも興味を抱かせたし、司法の保守化という新政権の公約は、最高裁人事への国民の強い関心を引きおこした。特に妊娠中絶の問題について最高裁がどのような新しい判決を下すかについて、注目が集まる。
 こうした状況下で、判事たちは慎重に判決を下しはじめた。

レーガン政権第1期の最高裁判決

 1981年から1986年までは、バーガー首席判事最後の5年間にあたる。この間に最高裁が下した特に重要な判決を、いくつか取り上げよう。

(1) 妊娠中絶の権利
 1973年に下されたロー対ウェード事件判決の憲法解釈は、連邦・州両レベルでの選挙の争点となり、プロライフ派とプロチョイス派のあいだで激しいやりとりが続いた。保守的な州では、同判決の適用範囲を狭める、あるいは覆すのを目的とする州法が多数制定され、その合憲性を問う訴訟のいくつかを最高裁が取り上げた。
 たとえば1983年に下されたアクロン市対アクロン妊婦健康センター事件である。オハイオ州法は、妊娠第2三半期以後の中絶は病院で行うこと、医師は15歳に達しない少女が中絶を望む場合、両親のいずれか、もしくは裁判所からの同意を得ないかぎり中絶を行ってはならないこと、中絶手術を行う前に医師はその危険や性質について患者に詳しく説明すること、患者が手術への同意書に署名してから中絶まで24時間待たねばならないことなどを、義務づけた。しかしパウエル判事の法廷意見は、これらの規定が必要以上に中絶実施の障壁となる、少女が親の同意を得られない場合どうするかについて具体的手続きを示していないなどの理由により、6対3の投票で違憲無効とした。
 このケースでは、2年前新たに最高裁判事に就任したオコナー判事が反対意見を書いた。ロー事件判決法廷意見でブラックマン判事が妊娠期間を3つにわけ、それぞれに違った判断基準を用いたのは間違っている。むしろ特定の規制が中絶を行うにあたって「アンデュー・バーデン(過度の負担)」を科するかどうかを、妊娠期間全体を通して一貫した判断基準にすべきである。そう主張した。理屈はともかく、この反対意見はレーガン政権の期待どおり、オコナー判事がロー事件判決に批判的であるのを示していた。ロー事件判決で反対意見を著したホワイト判事とレンクイスト判事が、この反対意見に加わる。
 一方、同時に下された家族計画協会対アッシュクロフト事件判決では、アクロン事件と同様15歳に達しない少女が中絶を行う場合に親の同意を求めることを義務づけるミズーリ州法の規定が合憲とされた。オハイオ州法と異なりミズーリ法の規定は、親の承諾が得られなくても当事者に十分分別がある、もしくは中絶が彼女の利益にとって最良の選択であると、法廷で少女自ら証明する機会を与えているからである。ここでも最高裁は妊娠中絶の権利が絶対でないことを、強く示唆した。
 さらに3年後の1986年、ソーンバーグ対アメリカ産婦人科婦人科学会事件判決が下される。妊娠中絶の前に医者が詳しく中絶のリスクを説明するよう求めるペンシルバニア州法の規定が違憲とされた。ただしブラックマン判事の法廷意見は、5票しか賛同を得られない。ホワイト、レンクイスト、オコナーに加え、今回はロー事件判決で賛成票を投じたバーガー首席判事が反対に回り、自らも反対意見を書いた。
 こうして最高裁判事の一部はロー事件判決に対し批判的となりつつあったが、ロー事件判決を固守する5人の判事は依然として健在であり、同判決が覆される気配はなかった。レーガン政権は反対派の判事を、もう一人必要としていた。

(2) 同性愛の権利
 女性が憲法上、妊娠中絶の権利を有するというロー事件判決の核心部分は、いわゆるプライバシーの権利に基づいている。子供の教育方針、教えるべき言語の選択、夫婦間の避妊具使用の自由などは、憲法の条文上明記されていなくても、修正第1条が保障する言論、信教、思想の自由、修正第4条が保障する令状なしの捜査押収や逮捕の禁止などと同様、個人のプライバシーに関わる侵すべからざる基本的権利であり、政府は干渉すべきでない。最高裁はプライバシー権をこのように説明してきた。
 しかし憲法の条文に基づいていないだけに、解釈次第でその範囲が拡大する傾向がある。ロー事件判決をめぐる論争は、このプライバシー権がどこまで及ぶかについてのものである。同様に同性愛を行う自由がプライバシー権の一部として憲法上守られるべきかという問題が、最高裁によって取り上げられる。1986年のバワーズ対ハードウィック事件判決である。
 ジョージア州法は同性愛をふくむいわゆるソドミーと呼ばれる性行為を犯罪と規定し、禁止していた。別件で逮捕状執行に訪れたアトランタ市警の警察官が、ハードウィックが自室で別の男性と性行為に及んでいるところを発見、2人を現行犯で逮捕する。検察は起訴しなかったものの、ハードウィックは同刑法の違憲性を主張して提訴、最高裁がこの事件を審理する。
 最高裁は5対4で当該ジョージア州刑法を合憲と判断した。法廷意見を著したホワイト判事は、プライバシー権として守られるべき基本的権利は、伝統に深く根ざす家族の価値観を体現するものに限られる。全米22州で犯罪とされる同性間の性行為は、そのような価値観とは相いれず、同性愛の権利は憲法で守られるべき基本的なものではないと論じた。
 法廷意見にはバーガー首席判事、レンクイスト判事、オコナー判事にパウエル判事が加わった。ソーンバーグ判決では、妊娠中絶の権利を支持したパウエル判事が、同性愛の権利は認めなかった。プライバシーの権利のさらなる範囲拡大に、最高裁の多数は消極的であった。

(3) 自由と平等:政教分離、信教の自由、女性差別
 最高裁はこの時期、より伝統的な自由と平等の問題に関する憲法解釈を引き続き行う。1950年代から1960年代にかけてウォレンコートが下した個人の自由や権利を強調する進歩的判決を、基本的には踏襲するのだが、保守主義の潮流のもと、時折これまでと違った解釈を見せた。
 たとえばこの時期、修正第1条が定める政教分離原則の解釈をめぐって、最高裁は様々な事件を取り扱っている。この背景には、宗教が社会で果たす役割をより高めたいと考える保守派の運動があった。1985年のウォラス対ジャフリー事件判決では、最高裁は6対3の多数で公立学校における瞑想もしくは自発的な祈祷のための沈黙の時間を定めたジョージア州法の規定を違憲とする。たとえ祈祷そのものを強制しなくても、この法律は宗教的動機に基づいていて個人に宗教を強制する恐れがあり、政教分離の原則に反すると判断した。ウォレンコート時代の1962年、最高裁はエンジェル対ヴィタレ事件判決で、公立学校における祈祷と聖書の購読を違憲とする画期的な判決を下し、宗教教育を重んじる保守派の反発をかっていた。ウォラス事件判決は、最高裁がそれから20年後も考えを変えていないことを示した。
 同様に、この時期最高裁はクリスマスの飾りつけに関する一連の興味深い判決を下した。1984年のリンチ対ドネリー事件判決で最高裁は5対4の投票により、ロードアイランド州ポータケット市のショッピングセンターの市有地に毎年展示されるキリスト生誕の情景を表す飾りつけは、サンタクロース、クリスマスツリー、その他と一緒に置かれているがゆえに宗教的な目的はなく、十分に世俗的な目的をもったものであり、合憲であると判断する。しかし翌年のACLU対スカースデール事件では、ニューヨーク郊外スカースデール市の公有地に置かれたキリスト生誕の飾りつけは、政教分離原則に反し違憲と判断。さらに1986年のアリゲニー郡対ACLU事件判決では、ペンシルバニア州ピッツバーグ市の郡裁判所内部に飾られたキリスト生誕の飾りつけは宗教的色彩が強く違憲、しかし郡市共同役場の前に建てられた大きなメノラ(ユダヤ教のシンボルである燭台)は、巨大なクリスマスツリーと一緒なので宗教色が薄く合憲と判断した。
 ちなみに、スカースデール事件がニューヨーク連邦控訴裁判所で審理されたとき、私はたまたまロースクール第2学年を終えてニューヨークの法律事務所で実習中であった。そして同事務所の若いロイヤーが、スカースデール市の代理人として口頭弁論を行うのを見学に行った。連邦裁判所の審理を傍聴するのは初めてであり、裁判長がユダヤ人、双方の代理人もユダヤ人で、彼らが立場を変えてキリスト生誕像展示の合憲性を論じるのを、興味深く思った。
 このように一般的には政教分離原則を厳格に解釈する最高裁だが、1983年のマーシュ対チャンバース事件判決では、ネブラスカ州議会が長年牧師を雇い開会の祈祷を行わせしめるのは合憲との判決を6対3で下す。キリスト教を重んじる特異な伝統を有するアメリカで、議会における祈祷は慣習の一部になっており、政教分離を禁じる憲法の対象とはならない。法廷意見を著したバーガー首席判事は、こう理由づけた。
 一方、平等にかかわる分野で、最高裁は1950年代から1970年代を通じて黒人差別についての重要な判決を下し続けたが、バーガー・コートはそれに加えて女性差別の問題を積極的に取り上げる。ほぼいかなる場合においても正当化が難しい人種差別とは異なり、女性を男性と区別することには、時として正当化な理由がある。このため最高裁は、長いあいだ女性差別にかかわる法律を簡単に違憲とはしなかった。しかし1970年代になってバーガー・コートはこれまでより厳格な審査基準を用い、女性を不当に差別する法律を違憲無効としはじめたのである。
 この流れにそって最高裁は1982年、ミシシッピ州立女子大学対ホーガン事件で性差別の問題を改めて取りあげた。ただし訴え出たのは、州立の看護大学への入学を女子大学であるという理由で拒否された男性である。最高裁は5対4で入学拒否を違憲と判断した。最高裁判事になって初めて法廷意見を著したオコナー判事は、看護大学に女性のみ入学を認めるのが長年にわたる女性差別是正のための積極的施策であるというのは、「非常に強い説得力をもつ正当化」にあたらない、当該女子大学の方針は看護師が女の仕事だという古くさい観念を固定化するだけだと論じた。女性ロイヤーとして差別を受け辛酸をなめたオコナー判事らしい意見である。

(4) 大統領権限、3権分立、連邦制度、著作権
 この他にもバーガー・コート最後の5年間に、最高裁の歴史に残る重要な判決がいくつか下されている。たとえば人質解放に関するイラン政府との合意にしたがって、民間人が財務長官を相手どって提起したイラン資産差し押さえ請求を無効にする大統領令を合憲とする、1981年のデームズ・モア事件判決。法律にもとづく行政行為を議会が再び審理し無効にできる議会拒否権を違憲とする、1983年のチャダ対移民帰化局事件判決。連邦労働基準法が定める最低賃金や最長労働時間に関する規定は市職員にも適用されるとして州の主権を狭く解釈した、1985年のガルシア対サンアントニオ交通局事件などがあるが、ここで詳述する余裕がない。
 これは憲法問題ではないが、1984年に最高裁は、ソニー・アメリカ対ユニバーサルシティー・スタジオ事件判決で、テレビ放映される映画の個人的録画を可能とする家庭用ビデオ機器の製造や販売は、著作権の寄与侵害にあたらないという判決を下した。5対4の僅差であった。ベータマックスの普及にともない、映画会社はテレビで放映される映画の録画が増えると映画館に足を運ぶ人の数が減るのではと恐れ、直接録画を行う個人ではなく製造者であるソニー他を相手どり賠償を求める訴訟を起こした。製造者や販売者は著作権の侵害に寄与しているというのである。
 連邦地裁ではソニーの勝訴となったものの、控訴裁判所が下級審の判決を覆す。もし最高裁で敗訴すれば会社がつぶれるのではないかとソニー経営陣が恐れたほど、同社にとって重大な訴訟であった。最高裁は1983年1月にいったん当事者の口頭弁論を開くものの、その年には結論を出さず、再度口頭弁論を行ったうえで翌1984年に判決を下した。最初の口頭弁論のあと、判事の一人が意見を変え著作権侵害にあたらないとの意見が多数になったためだと、噂された。
 ソニー入社以来、私はこの訴訟を多少手伝っていたけれど、最初の口頭弁論がなされたときにはロースクール留学2年目で、寒空のなか東京からやってきた法務部の人たちと一緒に傍聴した。廷内は満員で隅のほうの柱のかげに座らせられ判事の顔も満足に見えない。代理人の口頭弁論や判事とのやりとりは音響効果が悪く、よく聞き取れなかった。それでも初めて最高裁の審理を傍聴し、緊張し興奮したのを覚えている。あれからもう30年近く経つ。



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