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憲法で読むアメリカ史

第6回 史上初の女性最高裁判事

スチュワート判事の引退

 レーガン政権が新しい最高裁判事を任命する機会は、存外早く訪れた。大統領就任からわずか5ヶ月後の1981年6月18日、ポッター・スチュワート判事が引退を表明する。穏健な保守派として知られるスチュワート判事の引退表明は、周囲を驚かした。1915年生まれで、この時66歳。アイゼンハワー大統領に指名され最高裁判事に就任してから23年。まだ十分活躍できる年齢である。すでに75歳のブレナン判事が1981年からさらに9年間最高裁に留まったことを思えば、どこも体が悪くないように見えるスチュアート判事が急に辞めるのは、やや唐突に感じられた。
 特に9年前、64歳で就任したパウエル判事は、自分より8歳若いスチュアート判事が引退を表明したのに驚き、留まってほしいと個人的に説得を試みたらしい。しかしスチュアート判事は、「もう十分最高裁判事をやった」と言って、淡々と去った。いかにも首席判事候補にしないでくれとニクソン大統領にこっそり頼んだ人らしい。スチュアート判事は4年後の1985年、70歳で逝去する。早目に辞めたのは、もしかすると自分の体調に自信が持てなかったのかもしれない。
 実はすでに3月中旬、スチュアート判事は親しい友人のジョージ・ブッシュ副大統領を通じて、引退の意思を非公式に政権へ伝えていた。レーガン政権の保守的なロイヤーたちは、ロー対ウェード事件判決を覆す可能性が高い判事を指名する絶好のチャンスが到来したと喜ぶ。スチュワート判事は、同判決で法廷意見に賛成した1人であった。プロライフの判事を任命すれば、ロー事件判決の多数意見対少数意見のバランスが7対2から6対3になる。それだけでは不足だが、重要な前進である。
 しかし大統領の反応は少し違った。大統領選挙期間中、妊娠中絶に反対の立場を取ったものの、レーガン大統領の保守主義は宗教色の強いものではなく、ロー事件判決を覆すことにそれほど強い情熱を抱いていたわけではない。それに選挙中、当選したら史上初の女性最高裁判事を任命すると公約していた。彼は後者の実現をむしろ優先した。民主党と比べ女性支持層の基盤が弱い共和党の大統領である。女性最高裁判事任命によって女性からの支持率を上げ次の選挙に備えるのは、十分意味があった。
 問題はだれを指名するかである。最高裁の女性判事が3人を数え、女性ロイヤーの活躍が当たり前、ロースクール学生の約半数を女性が占める現在と比べれば、1981年当時、全国的な活躍をする女性法律家の数はまだ限られていた。最高裁判事に就任するのが仮に50代前半だとすると、ロースクールを卒業してから約25年間、法曹での経験を積んでいることになる。1981年から四半世紀前の1950年代半ば、アメリカのロースクールで学ぶ女性の数は1クラス数人に過ぎず、卒業してもなかなかいい仕事につけない。当時のアメリカは、驚くほど男性優位の社会であった。したがって1980年代初頭、一流法律事務所や司法・行政の要職でロイヤーとしての経験を積み、人格見識共に高く、さらに連邦最高裁判事としての職責を果たせるだけの能力を有する女性は、なかなかいなかった。
 しかも共和党保守派の多くは、女性は妻として家庭を守り、夫を支え、子供を育てるのが本務だという、いわば良妻賢母の思想を長く抱いてきた。1930年代にイェール・ロースクールを卒業、ワシントンの大手法律事務所アーノルド・ポーターのパートナーとなり、タフな税法のロイヤーとして勇名を馳せた女性弁護士、フォータス最高裁判事の妻キャロル・アガーなどは、例外中の例外である。しかもそうした先駆的な職業人女性には、圧倒的に民主党支持派が多かった。レーガン政権がロイヤーとしての資質に疑問の余地がなく、同時に家庭を大事にする共和党支持者の女性法律家を探そうとすれば、選択の幅はさらに狭まった。

オコナー判事の登場

 こうした情勢のもと、司法省の役人たちが苦労して探し出した数人の女性の1人が、アリゾナ州控訴裁判所のサンドラ・デイ・オコナー判事である。彼女は連邦政府で働いた経験も学者としての実績もなく、全国的にはまったく無名の存在であった。ロースクールのクラスメートであったレンクイスト最高裁判事を除けば、当時ワシントンでこの女性をよく知る人は、ほとんどいなかっただろう。ちなみにレンクイスト判事は彼女が候補に挙げられていることを知ると、自らホワイトハウスに電話をかけ、強く推したという。無名ではあるものの、その経歴や人柄は、共和党大統領が指名する初の女性最高裁判事候補として申し分なかった。レーガン大統領がオコナー女史指名を決意し、政権第1期目の司法長官であったウィリアム・フレンチ・スミスが受諾の意思を確かめるためにオコナー家に電話をかけたのは、オコナー判事自身の著書によれば、1981年6月25日のことである。
 オコナー判事は1930年、テキサス州エルパソで生まれる。父親が経営するアリゾナ州東南の隅、ニューメキシコ州との境に近く何もない砂漠の真ん中に広がる広大な牧場で、幼少期を過ごした。この牧場の名前をレイジー・ビーと言う。アルファベットのBが横に寝ている烙印を、牛に押すのが習わしであった。周囲に学校がないので、エルパソに住む母方の祖母の家から中学・高校へ通ったあと、飛び級をして16歳でスタンフォード大学へ進む。そのまま同大学ロースクールへ進学し、クラスで3番目の成績で卒業した。同級生にはビル・レンクイストの他に、1年後輩には卒業後結婚するジョン・ジェイ・オコナーがいた。
 今なら名門スタンフォード・ロースクールを優秀な成績で卒業すれば、一流法律事務所から引く手あまたであり、就職には困らない。ところが若きサンドラは、懸命に就職口を探したものの、どの法律事務所も相手にしてくれなかった。唯一ロサンゼルスに本拠を置く大手法律事務所のギブソン・ダン・クラッチャーが返事をくれたが、それは秘書としてなら雇うというものだった。
 皮肉なことに、レーガン大統領の意を受けてオコナー判事に最高裁判事指名を伝えたフレンチ・スミス司法長官は、政権に入る前ギブソン・ダンのパートナー(共同経営者)をつとめていた。ギブソン・ダンは、1987年に私が就職した法律事務所でもある。1990年に同事務所は創立100周年を迎え、ロサンゼルスで祝賀の会が開かれた。ゲストとして招かれたオコナー判事が、挨拶のなかで、「1981年、ビルが私に電話をかけてきたとき、またセクレタリーの職をオファーしてくださるのかと思いました。今度はたとえば国務長官(セクレタリー・オブ・ステート)か何か」と述べて満場を沸かせたのを、よく覚えている。
 結局彼女は法律事務所の仕事を得られず、カリフォルニア州サン・マテオ郡検事の事務所でロイヤーとしての第一歩を踏み出す。その後夫が陸軍のロイヤーとして召集されドイツに駐在したときには、自らも駐独米陸軍の民事担当ロイヤーとしてフランクフルトで働いた。帰国後アリゾナ州フェニックスに住居を定める。同市の大手法律事務所で働く夫ジョンを支え、3人の息子を育てながら、仲間と小さな法律事務所を構えた。町のロイヤーとして法律業務をこなし、経験を積む。スタンフォード・ロースクールのクラスメートたちが大手法律事務所や司法省などで経験しつつあった華々しい法律の仕事とは程遠い、ごく日常的な法律の仕事であった。2番目の息子が生まれたときには、5年間仕事をやめて育児と家事に専念する。子育てが終わるとアリゾナ州司法次官補に任命され、ロイヤーの仕事を再開した。
 ずっとのち、最高裁判事になったオコナー女史は、ワシントン市内にあるジョージタウン・ロースクールの卒業式に招かれて行ったスピーチのなかで、大略次のようなことを述べている。
 「あなた方卒業生のなかには、一流法律事務所への就職が決まって、とてもよろこんでいる人がいるでしょう。しかし同時に、せっかく3年も勉強してロースクールを出たのに希望の仕事につけなくて、くさっている人もいるでしょう。けれども、つまらないと思う仕事につく人は、とても重要です。だれもおもしろいと思わない仕事を仕上げるのは、あなた以外いないのですから。ですから与えられた仕事を一所懸命おやりなさい。あなたの仕事ぶりを、だれかが見ています。いい仕事をしていれば、次のチャンスが必ず回ってきます。リンカーン大統領が述べたように、『いつか必ずやってくるチャンスに、いつも備えて』いらっしゃい」
 若い卒業生へのこの言葉は、オコナー判事自身の経験そのものであった。目立たない仕事を、持ち前の完璧主義と高い能力でこなす彼女を、次第に周囲が認めるようになる。1969年、アリゾナ州知事が彼女を欠員の出た州議会上院の議員に任命した。再選を果たし2期4年間その地位にあり、同州では史上初の女性上院院内総務をつとめた。一時は州知事候補に推す声もあったそうだが、考えるところがあって、1975年に州地区裁判所判事に転じる。1979年には州知事から州控訴裁判所判事に任命された。2年後、この地位にあったオコナー判事に、レーガン政権が目をつけた。

アメリカでもっとも著名な女性

 1981年7月6日、レーガン大統領は次の合衆国最高裁判事にサンドラ・デイ・オコナー判事を指名したことを正式に発表する。初の女性最高裁判事指名のニュースに、全米は騒然となった。新聞やテレビは、全国的にまったく無名なこの女性について一斉に報じる。オコナー判事自身、この日を境に生活がまったく変わったと述べている。どこへ行ってもマスコミが彼女を追い回す。あるパーティーへ出席した時には、床に隠しマイクが仕込んであった。彼女の会話を何とか録音してスクープをものにしようとしたのだと、判事から直接聞いたことがある。就任1年目、実に6万通の判事あて書簡が最高裁に届いたという。そのなかには、女性最高裁判事の実現をわがことのように喜ぶ女性からの手紙だけでなく、「女よ、台所へすぐ戻れ。判事は男の仕事だ。女には冷徹な判断はできない。孫と夫の面倒をみていなさい」などという、老人男性からのものもあった。よくも悪しくも、オコナー判事は一夜にしてアメリカでもっとも著名な女性となったのである。
 こうした全米での騒ぎとマスコミの集中的な報道にもかかわらず、合衆国議会上院でのオコナー判事の最高裁判事任命手続きは、おおむね順調に進んだ。ただ妊娠中絶について判事の考え方が明確でないとして、プロライフの団体と宗教団体の一部が、懸念を表明した。何人かの共和党保守派上院議員が、ホワイトハウスに直接その旨を伝えた。実際、当時アリゾナ州議会上院議員であったオコナー女史が、妊娠中絶を禁止する州刑法の規定を廃止する法案に委員会で1970年に賛成票を投じたという、地元新聞の報道があった。ただ一方で彼女は、妊娠中絶の権利を制限する法案にも賛成している。
 レーガン大統領の7月6日の日記によれば、オコナー判事は大統領へ、個人的には妊娠中絶が嫌いですと電話で直接伝えている。のちにクリントン大統領弾劾の際に独立検察官をつとめる司法省の若いロイヤー、ケネス・スターが、オコナー判事の資格審査のために話を聞きにやってきたときには、「アリゾナ州議会の議員として、妊娠中絶を合法化する法案支持の投票をしたことは一度もない」と述べる。政権はそれで満足したらしい。しかし判事は、憲法上の権利としての妊娠中絶をどう考えるかについて、さらに最高裁判事として将来中絶に関してどのような判断をするかについて、一切何も言わなかった。オコナー判事に対するプロライフ派の懸念は残り、実際彼女はのちに最高裁判事として妊娠中絶の権利を支持する立場を取るのである。
 妊娠中絶に関する若干の不安はあったものの、公聴会に先だって面会した連邦上院議員のあいだでオコナー判事は圧倒的に評判がよかった。礼儀正しく、それでいてはっきりと自分の意見をいい、しかも妻として母として、同時にロイヤーとして優れていた。特に西部アリゾナの大地で育った彼女の自由独立の精神は、州の自立、個人の自立を重んじる保守派議員の琴線に触れたようである。きわだって保守的な南部サウスカロライナ州選出のジェシー・ヘルムズ上院議員は、オコナー判事のことをすっかり気にいって、妊娠中絶に関し若干の懸念を有しながらも、彼女の肩を抱くようにして、強い南部なまりで「あなたは大丈夫、心配することはないよ」と言った。当時司法省の議会担当官としてオコナー判事承認の根回しをした、ギブソン・ダン事務所の私の同僚ロイヤーから、そう聞いた。
 マスコミの大きな注目を浴びた上院司法委員会の公聴会を無事終え、連邦上院は1981年9月21日、99対0(棄権1)と、ほぼ満場一致でオコナー判事の最高裁就任を承認する。唯一不在のため投票しなかったボーカス上院議員は、あとで判事に謝罪の手紙を送ったという。
 こうしてサンドラ・デイ・オコナー判事は夫ジョン・ジェイ・オコナーと一緒に9月25日、バーガー首席判事の司式のもと宣誓を行い、最高裁史上102人目、女性として初めての最高裁判事に就任した。
 ちなみにオコナー判事がレーガン大統領の指名を受けた約1ヶ月後、私はワシントンに向け単身で出発した。そして8月末にジョージタウン・ロースクール第1学年の勉強をはじめる。判事が就任した9月末には、契約法、民事訴訟法、刑法、物権法など、なれないアメリカ法の勉強に取り組んでいた。厖大な量の判例を毎日読まされ、教授の講義を理解するのに必死で、世の中の動きに目を向ける余裕はなかった。そのせいか、これだけ注目されたオコナー判事の指名から上院司法委員会での公聴会、同委員会と上院本会議での承認、さらに就任式に至るまで、まったく記憶がない。よほど勉強が忙しかったようだ。
 オコナー判事が就任したあと、レーガン大統領が最高裁判事を新たに任命する機会は、バーガー首席判事が引退を表明する1986年までなかった。したがってほぼ5年のあいだ、彼女はレーガン政権になって就任した唯一の最高裁判事であった。その間、最高裁判事の動向を注意深く見守る専門家だけではなく、広く一般大衆からも注目を浴び続ける。初めての女性最高裁判事であるがゆえの高い関心だけでなく、オコナー判事が妊娠中絶についてどのような立場を取るかにも多大な関心が寄せられた。就任当初、オコナー判事はなれない仕事に相当苦労したようである。一挙手一投足をマスコミに監視され続けながら、最高裁判事としての仕事に習熟するのは、大変な努力を要したに違いない。しかし判事は持ち前の頭脳と、エネルギーと、完璧主義によって、それを見事にやり遂げた。そして最高裁における影響力を次第に増していく。州裁判所判事出身の彼女が、やがて大きな存在感を示すのを、当初ほとんどだれも予想しなかった。




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