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憲法で読むアメリカ史

第2回 1981年の合衆国最高裁(1)

9人の判事

 ロナルド・レーガンが第40代アメリカ合衆国大統領に就任したとき、アメリカ合衆国最高裁判所には9人の判事がいた。
最高裁判事の任期は終身である。憲法が定める弾劾の手続きを踏んで連邦裁判所の判事をやめさせることは可能であり、実際に例がある。しかし1790年に最高裁が誕生してからこれまで、連邦議会上院での弾劾裁判にかけられた最高裁判事は1805年のサミュエル・チェース判事1人しかいない。しかも裁判の結果チェース判事は無罪となった。最高裁判事の人事を政党間の争いに巻き込むのは正しくないと、多くの議員が判断したからである。突然の死去、病気やけがなどで執務不能となるか自発的に引退しないかぎり、判事は原則として何歳になっても仕事を続けられる。大統領は欠員が生じたときのみ意中の最高裁判事候補を指名し、連邦議会上院の助言と同意を得て正式に任命する。これが建国以来変わらぬ憲法に則った決まりである。
 したがってレーガン大統領就任時の最高裁判事9人は、いずれもそれ以前の大統領が議会の承認を得て任命した人たちであった。大統領選挙中、司法の保守化をめざすと公約し、司法積極主義を取らない人を最高裁判事に任命したいと願っても、就任後欠員が出るまでは現職判事に司法府を任せるしかない。しかもレーガン大統領就任当時の最高裁には進歩派判事が多かった。
 当時の最高裁判事は私にとってなつかしい存在である。レーガン大統領が就任した1981年の8月、ジョージタウン大学ロースクールで法律の勉強を始めたときの必修科目の1つに合衆国憲法があり、購入させられた憲法の判例集の冒頭には1790年から同判例集の発行年である1977年までの最高裁判事一覧が掲げられていた。1977年から1981年までカーター大統領の任期中1人も判事が辞めなかったので、このリスト上最新の9人が1981年時点でも現役判事であった。憲法の教授は、授業のたびに9人の判事が下した最新の最高裁判決について論評した。あれから30年経って、現在でも最高裁判事を続けている人は一人もいない。そのうち8人は故人となった。

ブレナン判事

 9人のなかでもっとも古く就任したのは、1956年に共和党のアイゼンハワー大統領に任命されたウィリアム・ブレナン判事である。同判事は最高裁の歴史上7番目に長い34年のあいだ判事をつとめる。1906年に生まれ、アイゼンハワー大統領に指名されたとき50歳、レーガン大統領就任時にはすでに75歳であったが、それから1990年に84歳で引退するまでさらに9年間判事を続ける。1997年に91歳で亡くなった。  ブレナン判事はニュージャージー州でアイルランドからの移民であった両親のもとに生まれる。公立高校からペンシルバニア大学を経てハーバード・ロースクールで法律を学び、ニュージャージー州で弁護士として働いた。戦争中軍のロイヤーとして働いたあと故郷に戻ったブレナンは、1949年にニュージャージー州地区裁判所の判事に任命され、1951年に州最高裁判所判事に任命される。全国的にはまったく無名であったこの州裁判事を、1956年議会上院の休会中にアイゼンハワー大統領がいったん連邦最高裁判事に任命、翌年改めて議会の承認を受けた。
 共和党のアイゼンハワー大統領が民主党員であるブレナン判事を指名したのは、やや奇異な感じを与える。その最大の理由は、同年11月に迫った大統領選挙で再選をめざすアイゼンハワー陣営が、カソリックの人物を最高裁判事に任命することによって民主党支持者の多い北東部のカソリック、特にアイルランド系市民の票獲得を狙ったのだという。その効果がどのくらいあったかはわからないが、アイゼンハワー大統領は無事再選を果たす。
 ただ誤算は、最高裁判事に就任したブレナンが、その後一貫して進歩的な判決を出し続けたことである。しかもブレナン判事は他の判事に対し強い影響力を行使した。自身で多くの法廷意見を著しただけでなく、自分の主張が色濃く反映された法廷意見を他の判事に書かせることに巧みだった。ブレナン最高裁判事の助手をつとめた2人の知人によれば、判事は大変魅力的で暖かい人であったという。小柄でやわらかい印象を与えるが、その説得力は抜群で、だれからも愛された。相手を尊重し最大の敬意を示す。人の善意を疑わない。そんな人だったと聞いた。もしかするとその性格が、少数派や刑事事件の被疑者に同情的な、多くの進歩的判決を生んだのかもしれない。判事や学者、官僚として活躍するブレナン判事の元助手たちは、いまでも進歩派の法律家の集まりとして結束を保ち、影響力を行使している。
 ブレナン判事は自身より3年前に就任したアール・ウォレン首席判事から特に強い信頼を受けた。首席判事はしばしばブレナン判事に法廷意見の起草を求めた。ウォレン判事が首席判事をつとめた時期、最高裁は数多くの進歩的判決を下し、この時期の最高裁を今でもウォレン・コートと特別の敬意(あるいは敵意)をもって呼ぶ。ただし首席判事への影響があまりにも大きかったため、ブレナン判事就任以降、実際はウォレン・コートではなくブレナン・コートだったという学者もいる。アイゼンハワー大統領は、自分が大統領として犯した最大の過ちはウォレン判事を最高裁首席判事に任命したことだと言ったそうだが、ブレナン判事の任命はそれ以上のミスだったかもしれない。

スチュワート判事

 2人目は、1958年やはりアイゼンハワー大統領に任命されたポッター・スチュワート判事である。1953年から1961年まで2期8年の任期中に、5人の最高裁判事が退任したため、アイゼンハワー大統領は同数の新しい判事を任命している。1人目が前述のアール・ウォレン首席判事、2人目がジョン・ハーラン判事、3人目がウィリアム・ブレナン判事、4人目がチャールズ・ホワイティカー判事、そして5人目がポッター・スチュワート判事である。1人の大統領が任期中これほど大勢の最高裁判事を任命するのは比較的珍しい。ただしこの5人のなかでレーガン就任時まで最高裁判事を続けたのは、ブレナン、スチュワートの2判事だけである。
 スチュワート判事は1915年生まれ。イェール大学の学部とロースクールを出たエリートである。郷里オハイオ州シンシナティの法律事務所で働いたあと、39歳で連邦第6巡回区控訴裁判所判事に就任、43歳のときに連邦最高裁判事となった。1981年に引退、1985年に70歳で亡くなる。穏健な共和党員として知られ、ウォレン・コートでは進歩派と保守派の中間的立場を取るが、政教分離や刑事事件被疑者の権利などに関する進歩的判決では、法廷意見が憲法の意図を超えているとしてしばしば反対意見を著した。ニクソン大統領はスチュアート判事を次の首席判事に昇格させようと考えたらしい。しかし上院の公聴会や職にともなう雑事を嫌った本人が、大統領に会って直接断ったと伝えられる。また任期末期には、進歩派により近い判決を下すようになった。
 スチュアート判事はいたって真面目で目立つのが嫌いな人であったが、修正第1条の言論の自由保護条項がどこまで猥褻な表現を保護するかが問題となった1964年のジャコベリス対オハイオ事件判決で、「ハードコア・ポルノ」の定義について「見ればわかる」と記し、国民の間で一躍有名になった。

ホワイト判事

 3人目は、1962年に就任したバイロン・ホワイト判事である。ホワイト判事は1917年にコロラド州で生まれる。コロラド大学を卒業後、名誉あるローズ・スカラー(イギリスで生まれ南アフリカで活躍した政治家・実業家セシル・ローズが創設した奨学金の受給者)に選ばれてオックスフォード大学に留学し、戦争中は太平洋戦線で海軍の情報将校として勤務した。戦後イェール・ロースクールで学びマグナ・クム・ラウディ(きわめてすぐれた成績を収めた者に与えられる賞)で卒業、ヴィンソン最高裁判事の助手を務めたあと故郷のコロラドへ戻り弁護士として働く。1960年の大統領選挙でコロラド州におけるケネディー候補の選挙運動をとりまとめ、翌年発足した同政権へ司法次官として加わる。そしてそのわずか1年後ケネディー大統領によって最高裁判事に任命された。44歳であった。
 これだけでも輝かしい経歴であるのに、ホワイト判事は大学時代からアメリカンフットボールの選手として全国的に有名であった。その圧倒的な体力とスピードゆえに「疾風(Whizzard)」というニックネームがついた。卒業後、オックスフォード行きを1年延期し、NFLのピッツバーグ・パイレーツ(現在のスティーラーズ)でプロの選手として活躍、チーム一の給料を稼いだ。オックスフォードから戻ってからも戦争が勃発して軍隊に入るまで、デトロイト・ライオンズでプレイする。戦後プロの世界へ戻るよう誘いがあったらしいが、法律の道を選んだ。ロースクールの図書館で、フットボールのユニフォームをつけヘルメットを被ったまま判例を調べていたという伝説があるが、真偽のほどはわからない。
 最高裁判事になってからのホワイトは、ウォレン首席判事やブレナン判事とは異なる、保守的な判決を出す傾向を見せた。特に刑事事件被疑者の権利を尊重する一連の画期的判決に際しては反対意見を書き続け、女性が憲法上、妊娠中絶の権利を有すると判じた有名な1976年のロー対ウェード事件では反対意見を著した2人のうちの1人であった。もともとケネディー大統領の熱心な支持者であり、黒人差別にかかわる事件では一貫して進歩的立場を取り続けたので、保守派というよりはむしろ憲法の拡大解釈を嫌う、司法消極主義者といったほうが適切だろう。ブレナン判事がアイゼンハワー政権の思惑に反して進歩的判決を出し続けたのとは対照的に、ホワイト判事はケネディー政権にとってやや期待外れの判事であった。
 ホワイト判事はクリントン大統領任期中の1993年、後進に道を譲りたいとして引退を表明、31年間つとめた最高裁の法廷を去った。故郷デンバーで引退生活を送り、2003年に84歳で亡くなる。元フットボール選手らしく老齢になっても体格がよく、口頭弁論の際厳しい質問を発するので有名だった判事のことをなつかしむ人は多い。ちなみにロースクール第1学年で私が契約法を習い、のちにクリントン政権の海軍長官になったリチャード・ダンチグ弁護士も、ホワイト判事の助手をつとめた。

マーシャル判事

 4人目は1967年、リンドン・B・ジョンソン大統領が任命したサーグッド・マーシャル判事である。この人は何よりも史上最初の黒人最高裁判事として歴史に名を残した。
 マーシャル判事は、1908年にメリーランド州ボルティモアで生まれた。曾祖父はコンゴから連れてこられた奴隷、祖父も奴隷の境涯にあったという。父親は旅客列車のポーター、いわゆる赤帽を職業にしていた。ペンシルバニアにある1854年創立のアメリカ最古の黒人大学、リンカーン・カレッジを卒業する。そのあとメリーランド大学のロースクールに願書を提出するが黒人であるという理由で入学を拒否され、首都ワシントンにある黒人のための国立ハワード大学ロースクールに進学し、最優秀の成績で卒業した。のちにメリーランド大学ロースクールを相手取った黒人差別を問題とする訴訟で原告の代理人をつとめ、勝利を収めている。
 1936年、ボルティモアで弁護士として開業、同時に全国有色人種地位向上協会(NAACP)のための仕事を始めた。NAACPはその名のとおり黒人に対する人種差別と闘い、黒人の地位向上をめざす運動である。1909年にニューヨークで発足、その創設には進歩的な白人、特にユダヤ人が大きく寄与した。当初から訴訟を武器にして人種差別と戦う戦術を取り、その戦術を遂行するうえでもっとも活躍したのが若き日のマーシャルである。彼は1936年以降、NAACPの訴訟をいくつも手がけた。特に連邦最高裁では実に32回、口頭弁論で原告側の主張を行い、そのうち29回勝利を収めている。そのなかでも黒人差別の歴史にとって画期的意味をもったのが、公立学校における人種別学は本質的に不平等であり、法のもとの平等を定めた憲法修正第14条に反するとの最高裁の判断をかちとった1954年のブラウン対教育委員会事件判決である。ウォレン首席判事の手になる法廷意見は、最高裁判事9人全員一致で下された。ブラウン判決は前世紀以来少しも変わらなかった南部の黒人隔離政策を一部とはいえ覆した。その後も南部の差別はなかなか改善しなかったものの、公民権運動にとって大きな前進であった。勝利をもたらしたマーシャルは一躍有名になる。
 このマーシャル弁護士を、ケネディー大統領は1961年、南部出身上院議員の反対を押し切って連邦第2巡回区控訴裁判所の判事に任命する。さらに1965年、ジョンソン大統領が司法省の訟務長官(Solicitor General)へ任命した。そしてその2年後同大統領が最高裁判事に指名し、史上初の黒人最高裁判事が登場した。マーシャル判事は就任時59歳であった。
 こうした背景をもつマーシャル判事は、最高裁9人の判事のなかでもっとも進歩的な立場を取り続けた。特に黒人の権利に関する事件においては、憲法理論に忠実かどうかよりも、黒人にとって正しい結果であるかを重視する。彼にとって、長年虐げられてきた黒人がそうした結果を求めるのは、当然であり正しいことであった。マーシャル判事はブレナン判事と極めて親しく、この2判事の意見が異なったことは一度もないと言われる。晩年保守派の判事が増え、黒人一般の社会的地位が期待したほど向上しないことにいらだちを隠さず、最高裁判事になってからも自分は唯一の黒人判事として差別を受け続けたなどと、辛口の発言をしばしば行って物議をかもした。1991年、ブッシュ父大統領の任期中に引退したが、共和党大統領のもとで辞めねばならないのを大変悔しがったと言われる。1993年に84歳で亡くなる。
 以上4人の判事は、レーガン大統領の就任時にもっとも古参の最高裁判事であった。いずれもウォレン首席判事のもとで最高裁判事をつとめた。4人の判事はフランクリン・ルーズベルト大統領が任命したヒューゴ・ブラック、フェリックス・フランクファーター、ウィリアム・ダグラスなどの伝説的な判事を含む他の判事とともに、この時期の最高裁の方向を規定した。保守派、中道派の判事もいたのだが、特に60年代になるとブレナン判事を中心に進歩的な判決を出し続ける。そのためにはいささか強引に憲法を拡大解釈する最高裁判決の傾向は、公民権運動、ベトナム反戦、大学紛争といった当時のアメリカ社会の雰囲気に合っていたし、進歩派のアメリカ人に大歓迎された。しかし社会秩序の維持を重んじる保守派のアメリカ人だけでなく、多くの法学者からも強い批判を浴びる。そして1968年に就任した共和党のニクソン大統領は、より厳格な憲法解釈をする最高裁の再構築を目指した。
 こうした状況のなかで登場するのが、新しい首席判事、ウォレン・バーガーである。

(この項続く)




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