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大学 インテリ 教養 竹内 洋

第2回 高等遊民と危険思想  教養難民の系譜(2)

前回、現代の教養難民問題である近年の高学歴ワーキングプア問題についてふれた。わたしの大学院生時代には教養難民はそれほど目立ってはいなかったが、いまからみれば、近代日本における高学歴者問題の小春日和の時期だったからである。歴史的にみると、高学歴ワーキングプア問題は、いまにはじまったことではない。すでに何回も経験しているのである。そのはじまりが、明治40年代の高等遊民問題である。

漱石と高等遊民

 高等遊民という言葉は、夏目漱石によるものとおもう人がいる。おそらく芥川龍之介の『侏儒の言葉』に「露悪家」「月並み」などとならべて、「高等遊民」も「夏目先生から始まってゐる」とあることによっているだろう。
 たしかに高等遊民という言葉に独自の意味を充填したのは夏目漱石である。漱石の造形した高等遊民像は『それから』の長井代助に体現されるような人間像である。「パンに関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。パンを離れ水を離れた贅沢な経験をしなくちや人間の甲斐はない」「職業のために汚されない内容の多い時間を有する、上等人種」というのが漱石の造形した高等遊民像である。しかし、それは単に一定の財産があり、「パンを離れ水を離れた贅沢な経験」をすることができるというだけの意味ではなかった。漱石は金力と権力が荒れ狂う「文明の怪獣」を『野分』や『二百十日』で激しく非難したが、現実社会についてそうした批評眼をもつことのできる知識人として造形されたのが漱石の高等遊民像である。
 もっとも漱石が作品中で「高等遊民」という言葉を使用しているのは、『彼岸過迄』だけである。漱石の造型した高等遊民の代表格である代助が登場する『それから』には、「三十になつて遊民として、のらくらしてゐるのは、如何にも不体裁だな」、と「遊民」という言葉はでてくるが、「高等遊民」という用語は一度もでてこない。しかし、明治45年2月13日付の笹川臨風宛の書簡には「小説をやめて高等遊民として存在する工夫色々勘考中に候へども名案もなく苦しがり居候」とあるように、自らが描く高等遊民への憧憬が並々ならぬものであったことがわかる。『吾輩は猫である』の迷亭、『虞美人草』の甲野欽吾、『三四郎』の広田先生、『彼岸過迄』の松本や須永、『こゝろ』の先生は、いずれも漱石のいう高等遊民である。
 独立不羈の知識人という意味での高等遊民像は漱石を嚆矢とするが、一般には中等学校以上を卒業しても職につけない者、あるいは上級学校へ進学がかなわなくてぶらぶらしている教育ある遊民を指示する言葉として登場した用語である。漱石は明治40年代に頻繁に使われた高等遊民というフォーク・コンセプト(巷間で使用される概念)に特別の意味をこめて作り直したといえる。

高等遊民・大逆事件・危険思想

 いま高等遊民という言葉が明治40年代に頻繁に使用されるようになったといったが、社会問題となったのは、明治43(1910)4月、「高等中学校令」を審議していた高等教育会議での東京帝大法科大学教授穂積陳重(1855〜1926)の発言を発端としているのではないかとされている。官立だけでなく、公立高等中学校を設置し入学難を解決するという案に対して、穂積は、大方の卒業生は大学入学を希望するから「他日由々しき社会問題を惹起する」とした。さらに、同年8月の「高等遊民続出の傾向は政府当局の最も恐懼する所」とした警視総監談話をきっかけにしたものではないかもといわれている(長島裕子「『高等遊民』をめぐって」『文藝と批評』1979年12月号、伊藤彰浩『戦間期日本の高等教育』玉川大学出版部、1999、町田祐一「明治末期『高等遊民』問題への対応」『日本歴史』2008年8月号)。
 上級学校への入学難と卒業してからの就職難が高等遊民を増加させ、危険思想の培養器になるのではないかとされ、社会問題化されていった。高等遊民と危険思想の蔓延をリアリティのある不安にしたのは、このころ世間を震撼させた大逆事件を頭においてのことだった。大逆事件とは明治天皇暗殺のかどで、明治43年5月、全国各地の社会主義者・無政府主義者が多数検挙された事件である。暗黒裁判によって幸徳秋水ほか12名が死刑になった。この大逆事件を想定しながら、高等知識を得て職業につくことができない輩は不平をいだき、自然主義や社会主義、無政府主義に感染し、「無政府党の国家を乱すべきこと火を視るより明けし」(「学士の増加と社会の進歩」『日本及日本人』1910年7月1日号)という論調が沸騰したのである。
 1911年の『早稲田文学』には、こうある。「最近数年間に於けるかの所謂危険思想の沸騰は、その根因を此の所謂高等遊民の増加にありとし、能う限り之れが取締の方法を講じやうとするのが、当局者の方針であると云ふ事が、かの幸徳秋水一派の事あつて以来何かと世間に伝えられた」(彙報欄、同誌12月号)。
 ここらあたりの危惧の論理の筋道は、のちに経済学者シュンペーター(1883〜1950)がなした警告と軌を一にしている。シュンペーターの警告とはつぎのようなものである。高等教育は、費用=収益計算によって定められる点を越えて拡大し、ホワイトカラー職の供給を増大させ、知識人の失業をもたらせやすいこと、そしてこうした知識人の過剰生産が知識人の不満をもたらし、それが社会批判の蔓延をもたらすというものである(中山伊知郎ほか訳『資本主義・社会主義・民主主義』東洋経済新報社、1951)。
 高等遊民問題は大逆事件との関連で社会問題となった。高等遊民の増大と危険思想の蔓延の結びつけかたに、社会問題のフレームアップのパターンの原型がみえて、興味深い。
 たしかに大逆事件は知識人たちの不満が関与していたことは否めない。だが不満をいだいている知識人すべてが大逆事件に加わったわけでもない。にもかかわらず、高等遊民の増加がこのような事件を頻発させるように説かれて社会問題化されたのである。人々の恐怖や不安を想起させ結びつけることが社会問題化にとって手っ取り早く確実な方法である。
 そこでおもいだすのだが、時代はずっとあとになるが、1978年の共通一次試験導入とともに、国立大学1期校と2期校という区分けが廃止された経緯である。その経緯もこうした社会問題のフレームアップによるところが大きい。国立大学が1期校と2期校に分類されていたときは、国立大学の入学試験は、3月はじめに1期校が、3月後半に2期校がおこなわれていた。国立大入試のチャンスが2回あった。しかし、東大・京大など有名大学のほとんどは1期校であり、2期校には旧帝大は1校もなかった。2期校の有名大学は東京外国語大学や横浜国立大学など限られた大学であった。といっても、いずれも1期校の東大などが第1志望で、東大などに不合格になった者が第2志望として志願したものである。そのひとつが横浜国大だった。したがって、「2期校コンプレックス」という言葉は早くから存在していた。2期校に入っていた多くの国立大学では、1期校・2期校を廃止した一元化入試を希望していた。
 そんなときの1972年、連合赤軍が浅間山荘に人質をたてに立て篭もる事件がおきた。立て篭もったメンバーのうちの吉野雅邦は、番町小学校から麹町中学校、日比谷高校と東大コースを歩みながら、東大入試に失敗し、2期校の横浜国大経済学部に進学した。典型的2期校生だった。連合赤軍のメンバーには、吉野だけでなく、横浜国大出身者が多かった。経済学部、工学部、教育学部のそれぞれに3人で計9名もいた。
 国会でも議論され、なにゆえ横浜国立大学出身者が連合赤軍メンバーに多かったかが問題になる。ある国立大学学長が参考人として国会に呼ばれた。この学長はその原因が「2期校コンプレックス」にあるとした。議員たちは、深く納得した(黒羽亮一『戦後大学政策の展開』玉川大学出版、2001年)。議員たちは横浜国立大学に視察にいった。議員たちの印象は、学生がいかにも暗い表情をしている、それは、2期校で東大などの第一志望校を不合格になった者が多いからだとされた。かくて連合赤軍事件や浅間山荘事件のようなものをおこすのは、国立大学の1期校・2期校制度だとされ、1期校と2期校の区分けが一気に撤廃されることになった。
 こうしてみると、国立大学入試一元化の論理は明治末期の高等遊民問題と大逆事件との関連づけとよく似ていることがわかるだろう。明治40年代の高等遊民問題は社会問題のフレームアップの原型だった、といった所以である。

高学歴ワーキングプアのオリジン

 たしかに高等遊民という言葉が新聞や雑誌をつうじて普及したのは明治40年代だが、実はもっと古くから使用されていた。「高等遊民」を『読売新聞』の見出し検索をつかってみると、漱石が使用するかなり前、明治36年9月25日の「官吏学校を設立すべし」につぎのようにでてくる。

 「学芸を售(う)つて生活に資せんとする者、年一年より増加し、従つて供給は需要に超過し、各学校卒業生の職業を得るに困む者非常に多きは今日の状態なり、学芸を售るは猶可なれども、此等の輩の中には官吏となりて一定の俸給を得んとする者十中の七八を占め、これが為めに帝国大学を始め私立の法律学校の宛も官吏の養成所の如き姿となれり、官吏の養成所猶可なれども需要が供給の十分の一にも当らざる結果は、所謂落第の失意者を生じて、社会に何等の効能無きのを作ることとなる。
 此の弊や年所を経るに従ひて愈々甚しく、社会の遂ひに高等遊民の始末に大困却を来たすに至るや必せり、・・・」(傍点引用者)

 この論説は、学校を卒業して漫然とした官吏志望者が多いことから生じる高等遊民問題を改善するために、帝国大学法科大学や私立の法律学校とは別に官吏養成学校をつくり、大学は学問に志す紳士を養成するところにしたらどうか、つまり中途半端な目的の学校を解消せよといっている。高等遊民という言葉はこのあたりで登場した。遊民という言葉は古くからあったが、それが、書を読む遊民や教育ある遊民となり、浮浪者やルンペン、漂泊者などの下等遊民との対比で高等遊民となった。そのように推測される。
 高等遊民問題の原型をさらにさかのぼれば、すでに明治24年に「書を読む遊民」という論題でつぎのようにいわれている。学問世界の「秘蔵子息」である帝国大学の卒業生でもいまや「売れ口」がなくて困っている(『国民之友』132号、1891)、と。また、その2年後(明治26年)には、年を重ねるごとに「諸官省高等官の需用」が減少し、「大学卒業生、益困難の地位に陥るものヽ如し」(「大学卒業生の困難」(『教育時論』300号、1893)とされている。
 しかし、明治20年代は「書を読む遊民」はまだ社会問題化しない。帝国大学卒業生の絶対数が少なかったことと、あとの時代から比べればまだ遊民=職業未定者の割合が少なかったからである。帝国大学卒業生数は、明治25年には199人だったが、明治40年には583人になる。明治30年創立の京都帝国大学卒業生を加えれば949人にもなる。この間に帝国大学卒業生数は、4.8倍にもなった。帝国大学卒業生の進路が統計にあらわれるのは、明治25年であるが、この年度の職業未定又ハ不祥ノ者は10.6%である。しかし、年度を下るにつれて、18.8%(明治38年)、24.0%(明治45年)としだいに職業未定又ハ不祥ノ者の割合が上昇する(図1)。 この割合は医科大学、工科大学、理科大学、農科大学を合併した帝国大学卒業生全体のものである。法科大学や文科大学卒業者の職業未定又ハ不祥ノ者の割合はこれより大きい。
 ただ、図で注意すべき点は、調査洩れが不詳者をふやしたことと、このころの学卒者就職は、現在のように卒業と同時に就職が一般的ではなく、卒業後1年ほどは職探索(ジョブ・サーチング)期間だったから、図の職業未定又ハ不祥ノ者の割合は実際より多目だったことには注意したい。ともあれ、こうしたことから明治40年代半ばころから「学士就職難」が「高等遊民」問題として頻繁に言及されるようになった。

いっときの解決

 1914年に勃発した第一次世界大戦は、成金ブームをもたらし、史上最大規模で経済界に活況をあたえる。大正3年末から7年の間に会社総数は1.5倍になり、資本金は2倍以上になった。大正6年2月9日の『大阪朝日新聞』は東京帝大法学部の就職模様についてこう報道している。住友銀行の40人、三菱関係の40人をはじめとして卒業生の3倍から4倍での求人があり、「卒業生が多くなったよりは需要の方がドンと増加したといふ好景気」(「泳ぎ出る新法学士」「大阪朝日新聞」1917年2月9日)。
 明治41年の東京帝大と京都帝大卒業生の進路は、官吏や教員が会社員・銀行員の1.6倍だった。帝大卒業生の就職は官吏や教師が多かった。官吏や教師よりも会社員・銀行員の割合がふえたのが、この大正6年である。好景気になり、民間企業の高等遊民予備軍の吸収力があがり、教養難民問題は解決した。いや解決したかにみえた。しかし・・・

(この項目続く)


<図1> 東京帝國大学における職業未定ないし不詳者の割合


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